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トップ  >  はいの晄の八重山  >  秋雄おじいの昔語り 第1話|はいの晄の八重山

秋雄おじいの昔語り 第1話

福本秋雄さん

第1話 台湾から石垣島へ
「あのころ台湾から来るというのは、褌一本というか、天秤棒一本もって、担ぎ屋、これが資本ですね…」

親父の渡海

リュウキュウコノハズク
廖見福(りょうけんぷく) 1913(大正2)〜1967(昭和42)。台湾台中からの移住者で、戦後八重山のパイン産業の基礎を作った人。

 船の上から、イルカが群がって飛んでいるのを見ました。こーんな長い羊羹を絞り出しながら食べて…おいしかった。滅多に食べられないものですからね。あれだけは覚えていますね。はい。
昭和12年頃かな…、7つのときに八重山にきました。船はどこから出たのか、わからないですね。たぶん基隆からだと思うけどね。船の中をあちこち歩いたりしてね。あの当時、台中の人は一度も海を見ないで死ぬという人も多かったですからね。
祖母さんといっしょに八重山に来ました。爺さんは僕が4つのときに亡くなりましたね。祖母さんは、30何歳のころに親父を産んで、親父は一人っ子でしたから、どこへも親父と一緒でしたね。
台湾の家の格好とか、うすうす憶えてますが、あまり記憶にないですよ。山羊の牧場をやっていました。山羊を追い込んで草を食べさせたり…。山羊は400〜500頭いたんじゃないでしょうか。朝、山羊の乳を搾って、蒸籠で蒸して、瓶に入れて、配達ですね。田中(タンティヨン)というところで。乳搾りは朝早く起きてやりますからね、使用人は2、3名おったんじゃないかと思いますがね。それ(山羊)を処分してから来たんじゃないかと思います。はい。
親父(廖見福)はひと旗揚げるために外国に出たかったんじゃないでしょうかね。あとで親父の話を聞いたんですがね、港に行って、ある者はシンガポールへ、南台湾へ行くとか、あるいは小琉球へ行くとか…。別に八重山という目的があったわけではないそうですが、石垣島というところがあって、そこには台湾の企業があると。台湾の企業があるなら間違いなく職があるはずだと、上陸したらしい。
無一文で来たということは話してましたね。祖母さんは、(親父が)勝手に消えちゃって、行き先がわからないから…。あの当時は電報打つにしても、そのお金もなくて、連絡もとれなくて困っていたらしいよ。やっと電報が来て、健在であるということがわかって安心したらしい。
月給は安かったらしいが、親父は3人前の仕事をやっていたらしい。会社の100町歩の畑を、毎晩ヤマシシ(猪)が来るから、夜は鉄砲をもって駆除しないといかん。
それから、会社には8人くらいの監督がおったらしい。4ヶ部落、白保、宮良、大浜…、そこから300人くらいの労務が来ておったもんですから、8名くらいの監督がおったらしい。親父はその監督の人たちがちゃんと人をつかっているかどうか、正しいかどうか、昼はこの仕事。夜は畑をまわってヤマシシを退治する。撃つ。
もう一つ、工場にこんなにでかい焼き玉エンジンがあるんですが、これを焼いて起こすのに1時間くらいかかりよったんですね。この助手を務めた。
けっきょく一生懸命やったのが認められたんじゃないですかね。会社に認められて、あんたは独立してやらんかということで、この話がまとまったから、台湾から僕ら家族を呼んだんじゃないかと思います。はい。

石垣島・嵩田

リュウキュウコノハズク
パインの苗木を調べる林発氏

石垣の港に船が着いて、ポンポン船でポンポンポンポンと来て、木橋があって、ポンポン船がその木橋に横付けして、木橋から歩いていって、コンクリの桟橋があって…。あれから、町に、元の国際館の前(登野城自転車屋のところ)に林発さんの事務所があったから、そこに一晩泊まって、名蔵へ。歩いて行った。家財道具もなく、着の身着のままだったですよ。道という道もない茶山(嵩田)に連れられて来た。
親父が責任して会社と契約して、男の人4、5名集めて、会社の小作人ということになるんでしょうかね。大同殖拓株式会社(謝元福社長)。台湾の人たちが中心になって作ったパイン会社。林発さんがだいたい会社の経営はみていたらしい。自分らが来た当時はまだお茶事業も盛んだったですよ。大きな工場で、機械化されていたですね。はい。
あのころ台湾から来るというのは、褌一本というか、天秤棒一本もって、担ぎ屋、これが資本ですね。財産のある方はいらっしゃらなかったと思います。みんな台湾でも余裕がなかった人たちでしたでしょうね。
みんな一からの始まりですね。1日ピヨウ(日雇い)に行けば、油、塩、醤油を買って、1週間2週間分買えれば、そのあいだ一生懸命お芋を作る。1週間でつくった芋が2か月あとにはもう何ヶ月分の食料になるかわからないからですね。ピヨウといっても長らくは行かない。必ず自分の仕事(畑)に専念する。毎日ピヨウしておんなじ金額儲けようというのはめったにない。
ここに来たときは、畑も確保してあって、こっちは自分なんかが開墾するところ、と。
家は、細長い掘っ立て小屋。山から木を伐ってきて、これはシロアリが食べる木だとか、食べない木だとか、みんな把握しているんですよ。だから、あの当時、島の言葉で覚えたんですよ、ウケビとかヤマノバンとか、アリガフとか、木の名前ですね。
家は、自分の耕作する土地の便利なところの、中心に建てて、集落はつくらなかった。仕事の都合が悪いから。だからみんな、点々と。隣近所とかではなくて仕事を中心に家をつくるんですよね。
嵩田(茶山)は、会社があった道の向こう側が開発されていて、こっち(バラビドー側)はジャングルでしたよ。現在の嵩田の入り口あたりが名蔵との境界線で、あれから向こうは名蔵。名蔵から白水には小さな道があった。神田橋(一枚の板でね、上手に歩かないと落ちるんですよ。木だから腐れるでしょ、怖くて通れなかったです)はあったですが、そこから向こう、名蔵湾のほうには道はなかったですね。はい。
名蔵部落からクウドウのほうには道ができておった。名蔵大橋と小橋の間の海に向かってサトウキビの台車の支柱がまだ残ってあったです。ヒルギの間を通ってね。松材が立っておって。ずいぶん並んでいるところもあったし、点々とあるところも…。カモ撃ちに行ったら、見えたですよ。
名蔵も当時ほとんどが台湾の人。自分らが来た当時までは、小さい製糖工場もあったらしいですよ。名蔵の方は陸稲、お芋などをつくっていた。あのころ米が主体ですからね。とにかく田んぼができるところはあらゆるところを見つけてやっておったですよ。名蔵の人たちは、大同会社とは関係なく自分で仕事をしている人が多かったですね。デンプンのカタクリの木をつくったり…。

親の声は神の声

 当時は嵩田だけで60所帯くらい、300名くらいの台湾の方がいらっしゃったんじゃないでしょうか。親父は部落のまとめ役で、役所に行ったり、お客さんを接待したり、戦争中には軍に野菜をいれたり(部落で手分けして。交渉は親父たちがやった)…。畑は使用人が何名かおりますし。祖母さんなんかも手伝っていましたから、部落のまとめ役になってからは親父は畑仕事はあんまりしなかったですね。はい。
畑は4、5町歩あったんじゃないでしょうかね。パインとか、ジーマーミ(落花生)作ったときもありましたし、バナナ植えてみたり…。
親父は弁が立つわけではない。むしろ下手くそですね。達者ではない。おしゃべりではない。おべっかも使わない。なんというか、とにかく、着実にものごとを進めるし、何かあるとみんなを集めて説明したり、今からこんな時代になる、何が今後有望だとか、アドバイスするもんですからね、みんなに信頼されたんじゃないですかね。だいたい、仕事求めてくる方を断ったことがない。それに、細かいことは気にしない男じゃなかったかなあ。ガミガミ細かいことは言わなかった。
親父いつも言ったですよ。モノするときは、天地神明に誓って自分はこれをやっても悪くないと思うことはやっていいと。それでも世の中の人は悪と見る場合もあるが、それはいいと。いずれ分かってくれると。とにかく自分の心に訴えて悪くないと思えばやり通せと。
若いときは、なんでこんなに貧乏な家庭に生まれたかなあ、こんなに苦しんで働かなければいけないのかと親父を恨んだこともあるが、今になって、しかしこれは有り難いことだったんだと。自分の今日あるのは、苦労をしたからだと思ってますね。はい。
筋通らんことはぜったいさせない人だった。神様は信じていないけど、親の言うことは神様の言葉だという気持ちで聞いてきた。はい。親の言いつけだけは絶対服従ですね。どんなことを言いつけられようが死にものぐるいになって働く。テンとでも逆らったことはない。親には。はい。
台湾の人がみんなそうだということではないが、その家庭の教育によるでしょうね。祖母さんの言うことも、言いつけられたことはとにかく最後まで守ってやってきたですね。

 


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