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トップ  >  はいの晄の八重山  >  秋雄おじいの昔語り 第2話|はいの晄の八重山

秋雄おじいの昔語り 第2話

第2話 往復4時間の通学
「発音が悪いといっていじめられたりしましたね。台湾の発音の真似したりしてですね…」

カンテラ

台湾からの移住者
台湾からの移住者と民家(昭和8年・名蔵)
 学校へはすぐに入学できた。僕らは登野城校に通った。登野城校まで嵩田からけっきょく2時間もかかるんですよね。行きも2時間、帰りも2時間。
当時の家は今のアセロラ工場の上の方にあって、冬は暗くて怖いから祖母さんとカンテラを持って、本通りのみんなが集まるところまでやってきてから祖母さんは帰りよったからね。本通りまで出るまでに(草の露で)下半身はびしょ濡れですよ。懐中電灯もなかったし、四角いガラスのカンテラを持って。重たいですよ。これを持ってね、そして2、3名集まったときに歩き出す。上級生大股で歩いたら僕ら下級生は駆け足でないと追いつけないですよ。はい。
いまの暁之塔のところ(そこに後で開南分校ができて僕らはそこに通うことになるんですがね)、その反対側に2軒、瓦家があったんですよ。安富という方ともうひとり与那国の方ですね。この家にカンテラを預けて、預けたらもう軽くなったので喜んで走り出すんですよ。みんなの後を追って行きよった。そして帰りにはこれをまた持って。
毎朝、ヤマシシ5、6頭に出くわすんですよ。はい、もう、こんなだったですね。毎日ですよ。人間見たら逃げていくから。でも、怖いですよね、子どもだから。服装は…、学生服が買えなかったですよね。だから、みんなそれぞれで、クーシャーして(繕って)ね。でも、笑う人もいなければ…、みんなそうだから。
嵩田橋、振興橋、開南橋のところわたっていくんです。ヘーギナーからバラビドー…。遠回りとか近回りとかではなく、ジャングルですから、その道以外に考えられない。たまにバラビドーのところを横切れば近いと言われたけど、山に詳しい人が行っても、その人、迷ってまた戻ってくるんですよ。はい。当時の道は大変だったですよ。農高の後ろの今のガソリンスタンドのところ(シードー)の橋もなかったんですよ。川に下りて、上がった。開南橋も橋なかった。紙屋橋も橋がなかった。
僕は1年遅れて入学しました。僕は未年生まれですが申年といっしょに学校をでましたね。言葉は、発音が悪いといっていじめられたりしましたね。あの当時は大変だった。台湾の発音の真似したりしてですね。日本語はけっきょく学校で覚えた。先生がおっしゃるのがみんな日本語ですからね、周囲も日本語。親しい友達もできたし。朝から晩まで日本語。帰ってきて、祖母さんとだけが台湾語。親父は日本語ぺらぺらでしたが、入植した台湾人の大人はほとんど日本語わからない。 
授業が終わったら、ばらばらで帰る。来るときはいっしょだが。ヤマシシなんかもみられんから平気で帰りますね。しかし、雨が降ったら川を渡れないものだからまた戻った。町に。

芋の味

昭和8年当時の川良山付近の道
昭和8年当時の川良山付近の道

 あのとき、ウチの親父が具志堅のおじいと非常に友達だった。ヤマシシ撃ち、猟の友達。この具志堅のおじいに、もし子どもが帰れないときは泊めてくれと。ここのばあさんが僕をよく可愛がってくれた。戻ったらね、足洗ってくれた。庭先に石があって、そこで足洗ってあがるんですけどね。そして蚊帳も吊ってくれる。くれるけども、蚊がこーんなだった。宮良眼科の奥さんの妹だったらしい。登野城校の下の方の家。
学校から帰るときにヘーギナーのおんなじ道は飽きるので、ときどき、今日は名蔵回りで行こう、と。川良山道は石垣校まわりでしか行けないですから、裏口を通って上がってきたら、たまたまじいさんに会って、「わー、ずまぬりゃ(おまえ、どこの家の子か)?」と。茶山の廖の嫡子、と言ったからよ、「来ば、来ば」と言って、うん家ーかい、連ーり行きて、アッコン(芋)食ぁーし…。内原英郎さん(元石垣市長)のおじいさんには可愛がられましたね。
こんなシンメー鍋に芋があって、そのときの芋のおいしかったことは今でも忘れられないですね。はい。おいしい芋とおいしくない芋があったんですよ。内原家の芋はおいしかった。昔から痩せ地の芋はおいしいと。荒れ地にできる芋ほどクー吹いて甘くておいしかったですね。町なかのイシガンパラー(石ころだらけの畑)のところのがいい。ムイアッコン(収穫後にできる芋)もまた特別おいしい。
登野城校と石垣校はあのときとても仲が悪くて喧嘩ばかりしていた。「トゥンヌフサー(鶏の糞)」「イシガンパラー」と言って。石垣校の近くを通って生徒に見つかると、もう大変でした。嵩田は登野城校だったけど、名蔵は石垣校に通ったから、むこうでもやっぱり登野城校生と石垣校生は仲が悪かった。
川良山道はこんな小さな道。馬に薪を乗せるとね、土の壁に擦るくらい。馬同士がすれ違いできないところもあったですよ。そしたらね、馬に乗っている人がトゥバルマーとかデンサ節とか歌っているんですよ。なんでかなあと思ったらね、歌を唄って、通ることを知らせているわけですよ。出くわすとどっちか戻らないといけないから。そんな場所があったですよ。片っ方は川で片っ方は土の壁で。
川良山には3カ所冷たい水が流れているところがあって、ここで水を飲むのが楽しみでしたね。

家畜の世話

 学校から帰ってあとは、当時親父が部落会長でしたからね、島馬を養っておったですよ。学校から帰ってきたら馬の草を刈って…。ススキの若いのを8束ですよ。片っ方4束しばって、こっちも4束、竹の棒突っ込んで担いできて、夜中も外して食べさせるけど、これを刈りるときですね、開発するためにススキ山を焼いたところ、若いススキがでているところに、遠くても直行するんですよ。はい。
馬のハミ(飯)をつくって、親父が町からこの馬に乗って帰るのを待って、ハミやって、草をやって、馬小屋に繋いだり、馬の世話をするのが責任だったですね。馬の草刈らなかったらご飯食わさなかったですよ。 人間より馬が、あの時大事だった(笑)。宮古馬でキレイな馬でね、小駆けが上手でしたよ。親父もこの馬ものすごく気に入って。林発さんがいい馬もっていたけど、ウチのはまだそれよりキレイだった。あの時は家畜を自慢しよったですよ。ひと財産だったですよ。はい。
自分たちが養っていたのは馬1頭と水牛1頭と。水牛は繋いだらべつに草刈りる必要ないですから。水飲まして木の陰に縛ったらいいから。白保から水牛1頭買ったときは大変なお祝いしたですよ。嬉しかったですね。水牛を1日借りると、3日働いて返さないといけなかった。大変な財産。
水牛の話は知っているでしょ? 水牛は戦前に台湾の方が持ってきたのが初めて。僕らが入植する少し前。人の何倍も仕事してどんどん畑を開けるから、島の人は驚いた。もう一回、今度は60頭かな、入れようとしたら、上陸させなかった。「これ以上水牛を入れたらこの島は台湾人に乗っ取られる」といってね。許可しなかった。
でも、水牛はだいぶ繁殖してですね、白保にも、大浜にも。むこうから子どもを買い戻したり。当時、名蔵の区長さん(台湾の人)も繁殖させて何頭かもっていましたね。名蔵部落はあのころ70世帯ぐらいありましたかね。ほとんど台湾の方でした。
黒牛は、島では、山から材木を引っ張り出すのに使っておったですよ。暑さに弱いからこの牛は。畑では使わなかった。黒牛はまた肩がないもんだから、鞍がかけられないでしょ。赤牛(コウギュウといっているんですが)はこんなに肩が上がって、これはいいんですよ。足は速いし、暑さにも負けないし。
赤牛と黒牛を掛けたのがまた抜群ですね。足は速いし、力はあるし。はい。水牛よりもよかった。張反という人がアレの雄を1頭白保かどこかから買ってきて、小さいうちから仕込んだんですよ。鞍掛けて。足は速いし力はあるし凄かったですね。もの凄い有名だったです。肩が上がっているもんだからとても使いやすいし。

 


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