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トップ  >  はいの晄の八重山  >  秋雄おじいの昔語り 第4話|はいの晄の八重山

秋雄おじいの昔語り 第4話

第4話 戦争末期の大原にて
「浜に出て遊んでいるんですよ。山下軍曹がこっちに来るとね、わーっとみんな駈けて逃げた…」

開南分校

沖縄県営開墾事務局南風見出張所
沖縄県営開墾事務局南風見出張所
 登野城校に3年間通って、それから開南分校が今の暁之塔のところにできたのでそこに移った。瀬長弘先生と、先生の娘とふたりで教えておったんですよ。1年から6年まで一緒の教室で。生徒は30人余りおりましたね。
名蔵は石垣校に通っておったから、こちらは、嵩田、開南、川原、かな。あちこちの寄り集まりだから喧嘩もあったけど、すぐ仲直りして。沖縄出身の生徒から台湾の生徒、それから内地の生徒もおったし、ほとんど自由移民の方ばっかり。
川原の子が大変だったですよ。宮良川を渡ってこなければいけなかったので。こんなに深いですよ。天気が良いときでも、浅瀬を見て渡る。コースがあるんですね。それでもだいたいこれくらい濡れますからね。靴脱いで。赤下橋はあったけどまだヘーギナー橋できていなかった。しかし赤下橋を渡るととっても遠回りになる。よっぽどの大雨の日とかしか通らなかった。大変な時代でした。はい。
コース間違えたら渡れないですよ。雨が降って増水したときなんかアカギの枝をつたって川を渡るとか大変だったらしい。川を渡ってから洋服をつけたりして…。
道も馬車が精一杯に歩くくらい狭いし、畑はほとんどない原野だし、四ヶの人たちの畑はバラビドーのあたりの富川農場まででしたかね。開南あたりにはほとんど四ヶの人は入っていませんでした。あのあたりは茅畑と、だいたい原野だったですね、はい。茅畑があって、低いところに田んぼがあって、田んぼの周辺にこんもりとした木が生えているところがあって、という感じでしたね。
学校は真面目に毎日行きましたね。親父が厳しかったですしね。簡単に休まれなかったですね。たまには行かずに橋の下でかたまって遊んで、ということもあったですね(笑)。
学校ではドッジボールをしたり、瀬長先生には空手も教えてもらった。草刈り作業が多かったですね。校舎の周囲とか運動場とか草生えるのが大変だったです。いつも鎌もってこいと言われて。
飛行場(ヘーギナー)が目の前にありますから、最初のうちは赤い練習機が飛んできて下りたりしてね。そのころは戦争が始まっていたけど、まだ戦争の雰囲気はなかった。
ところが、大東亜戦争が激しくなって空き缶が来なくなったからね、会社はパイン缶詰をつくれなくなった。乾燥パインとか乾燥バナナとかつくっていたけど、そのうちに疎開が始まってゴタゴタして、台湾の方は、多くの人が台湾に帰っていきましたね。はい。 

神様になった水牛

干潮を見計らって牛車で耕作地を往復する
干潮を見計らって牛車で耕作地を往復する
 僕らは西表の大原開拓に行ったんですよ。家族全部で。親父と森田さんで、西表に避難しながら、仕事もあるからと大原行きを決めたと思いますよ。台湾に引き揚げる方の水牛を6頭買ってですね、大原開拓に、土地改良するために持っていったんですよね。どこの水牛は足が速いとか、ねばり強いとか、みんな知っていますからね、いい水牛から買ってね。これで大原の開拓はずいぶん進んだですよ。まだ空襲が始まる前ですね。
当時の3本マストの船に、6頭の水牛を、ごっつい網で吊り上げてウィンチで巻いて下ろして、こうして大原の桟橋で下ろして。これが西表の水牛の始まりですよ。それまで西表には水牛はいなかったですからね。
大原に着いて、水牛が1頭逃げたんですよ。足跡を追うと、仲間川を越えて海に下りて、ところが、上がってくる足跡がないんですよ。これはどこへ行ったか。まさか、これはね、石垣島から持ってきたからね、石垣島に帰ろうとしていたんですよね。はい。
小浜に泳いでいってですね、小浜では大騒ぎですよ。「天から神様が降りてきた」と。角がこんなに長いもんですからね、こんな牛、見たことがない。捕まえた人たちが集まってご馳走作って、ばあさんなんかがね、拝んでいたそうですよ。
その前に、親父は水牛を捜しに仲間川を越えたときに、カラスがこんなに集まって鳴いているもんだから、何かと見てみたら、水死体があったらしいですよ。大原に帰ろうとして、仲間川が満潮でしたからね、浅瀬を見つけようとして溺れたんでしょうね。親父はこれを見つけて、水牛を捜しに行かずに、自分の新品ワイシャツを死体に掛けて大原に戻ってみんなに知らせて…。
そうこうしているうちに、小浜から「拝んでいる」とニュースが入ったらしいですよ。
行ったら自分の水牛だったらしいですよね。これをまた大きい船を用船して持ってくるのは大変だから、船の後ろに繋いで引っ張ったら、また大原まで泳いできたらしいですよ(笑)。
当時の大原部落はちゃんと区画されて瓦葺きの多い部落でした。
現在の大原の製糖工場から上がっていったところにハテルザンという高台があるんですよ。今の交流センターのあたり。そこはみんな海まで茅でしたからね、そこに一間道路を作ってですね、土地改良。水牛で起こしてですね、部落の人に渡しておったですよ。部落でしばらく暮らして、それからハテルザンに移りました。ハテルザンの小屋は松の下の掘っ立て小屋。国の事業を請け負ったんですね。塚越という所長がおったし、それから土木事務所の山城なんとかという方がおったし。

星のマーク

 大原の学校は瓦屋根のコ型の学校。校庭も広かった。
朝、自分で作った木刀をこう、差していくんですよ。学校の門を入ると、真正面に、又木を逆に立ててですね、こっちにルーズベルト、またこっちにはチャーチルと書いた木が立ててあってですね、ルーズベルトでもいい、チャーチルでもいいから、木刀を持ち上げて、「ヤーッ」と言って木をバンッと打ってから、それから教室に行ったんですよ。女も男も、みんな。はい。
ある日、飛行機が低空飛行してくるもんだから、みんなしてこれを見たんですよね。見たら、星のマークだったですよね、みんな口空いて…。先生が「飛行機見たか」「どこの飛行機だったか」と聞いても、誰も、アメリカの飛行機と言いきれなかったですよ。戦争は日本が有利に進めていると教えられているもんですから。日の丸と思って走っていったのに。
そのあと、スコップをひとり一本ずつ持って壕を掘り始めたですね。学校の後のあたりの森の下とか。一人が入れる丸い穴。深さは人間がしゃがめるくらい、土も固いし、そんなに簡単には掘れませんでしたよね。
戦争が激しくなってからはほとんど学校には行かなかったです。それからそのまま。はい。
ずっと昔は近くに村(南風見村)があったらしいけど、風土病で全滅したらしいですね。ヤマシシ捕りに行ったらね、山の中には石垣の上にテーブルサンゴが被さって、その中はみんな骨ですよ。ガマ(壕)があるとね、そのなかに頭蓋骨がずーっと並んでね。ハテルザンから南風見田に行く山手の方に。空襲になると、僕らはそこに入りよったですよ。はい。
戦争が激しくなって土地改良事業はストップ。そこに芋を植えた。僕はそのとき小学6年生だったけど、水牛を使って、餓死するからということで。鋤も持ちきれないですよ、子どもですから。肩で担いで、こう回して、水牛を使って、芋植えたですよね。

空襲

 いよいよ空襲が激しくなったので、僕らはハテルザンからヤッサに移ることになった。ヤッサという島はね、仲間川にあって、島の回りを川がめぐっている。一周。ヤマシシ、このヤッサに入るのに泳がないと入れない。離れ島ですよ。広さは10町歩足らないんじゃないですかね。大原部落の後ろから小さい道があって、松の根っこから上がっていくような、こんな道しかないんですよ。海に下りてまた上がらないといけないところでしたから。はい。
荷物を牛車に積んで、大原部落を通過したころに、B52が海のところから飛んでいったんですよ。パラパラッと2回くらい機銃撃ったんですよ。どこに撃ったかわからなかったけど、僕らはヤッサに向かった。
すると、翌日は、新城島のあたりから6機くらい、大富のあたりで上がってブゥワーと急降下して、大原部落をバタバタと機銃掃射して、回ってきてまた…。山にぶつかるといけないので山側から海に向かって攻撃するんでしょうね。はあ、僕らがその日にヤッサに移らなかったら、もう死んでますよ。はあもう神様の助けだなあと思いましたよ。はい。大原は家も何軒か吹っ飛んでいましたよ。爆弾も何個か落として、村はずれに薬莢がたくさん落ちているんですよね。薬莢拾うのが楽しみだった。
ヤッサではその辺から材木を取ってきて畑小屋つくった。原野も茅畑もかなり何町歩もあったし、その茅を刈って屋根葺いたり…。50メートルくらい行くと、仲間川。夕方、釣りに行くとこれくらいのチンが釣れたし、ガサミが満ち潮にこんなにやってくるんですよ。はい。ヤマシシを捕ったり、とにかく食糧捜しで…。
芋はハテルザンの畑まで行って採ってきた。あのころは水牛も大原のほうに繋いだりしていた。そんなに遠いものじゃないから。もちろんヤッサでもどんどん開墾してるんですよ。芋を植えて。
ヤッサはジャングルで、けっきょく木の下に家があるようなもので、爆撃はぜんぜんなかったです。大原には定期的に来てやりよったですね。
ハテルザンでは立派な牝の水牛を僕がつかっておったですよ。この牛が、親父が鞍かけてちゃんと縛って2、3回開けたら鋤きやすいもんですから、それをやって、あとは僕に託して親父は用事に行くんですよ。ところが、この水牛、2、3回つかったら、子どもをバカにして全然歩かんですよね。どうしても歩かんもんだから、鞍はずして、松の木に縛っておいたんですよね。どうにもならんもんだから。
そしたら、親父なんかは昼食済ましてみんな昼寝している最中でしたが、僕は木の下で遊んでおったのか、急に飛行機がバーっと来てですね、とにかく集中的にハテルザンの掘っ立て小屋に撃ち込んだんですよね。そしたら、この牛は後ろ腿を貫通されて、片っ方の足をブランブランさせてね、やられたんですよ。
もう使えないから、治る可能性もないので、殺して食糧にした。みんなで分けて、あれでまた大分助かりました。水牛は泥臭いとかいうけど、そんなでもないですよ。水牛は当時は大変な財産ですからね、あれ1頭でも相当な痛手ですね。仕事ができないですから。

南風見田の浜

南風見田の浜
南風見田の浜

 あのころ南風見田には波照間の人たちが避難しておったですね。波照間の人は、疎開してきた当時はみんなマラリアに罹りはするがまだ平気だったですよね。みんな枕を並べて寝ているというような光景は僕は見なかったですね。
けっきょく栄養不足でしょうかね。いったん風邪をひくとなかなか回復しなかったですよね。僕らはウナギ捕ったりヤマシシ捕ったりして栄養とってましたからね。そのころ親父は猟銃を持っていましたからね。夕方、雷がゴロゴロッと鳴るんですよ。夕立が降るとヤマシシ喜んでね、原野に出てきて暴れ回るんですよ。それで風上に忍んでいってから撃つんですね。
波照間の人たちは海岸の近くの林の中にずーっと掘っ立て小屋つくってですね、住みついていた。山下という軍曹が仕切っておったですよね。はい、山下軍曹をみましたよ。僕らはヤマシシ担いで行って麦の粉と交換するんですよ。波照間の方、麦の粉持ってるもんですから。ヤマシシ持って、途中でこの山下に出くわして、袋に入れて担いでいるものですから、「これは何だ、開けてみろ」と言われて、開けてみて、ヤマシシの肉を見て「行け」と言われてね。
夕方、子どもがみーんな浜に出て遊んでいるんですよ。山下がこっちから来るとね、わーっとみんな駈けて逃げた。山下という人はこんなに怖かった。軍服を着て、ステッキみたいなのを持って、剣も下げていたんでしょうね。とにかく怖かったですね。
ヤマシシの肉を麦の粉と交換して、麦の粉にヘゴの芯を擦ったものを混ぜてオジヤにして食べたんですよ。ヘゴの先端の50〜60センチくらいの、大根みたいな芯。トロトロになっているから、川の流れにさらすとアク抜きされて固まるので、それを擦って麦の粉と炊くんですよ。おいしくはなかったけど、その時代は食べ物なかったですから。アレでもありがたかったですね。はい。
波照間の人たちは鰹船を何艘かもっていたからね、夜、波照間に行って、夜のうちに芋の葛を刈ってきて、僕らが整地した畑にばんない植えたですよ。波照間の人はけっきょく農具もないし、僕らにとっても葛は必要だったから、僕らが植えたわけですよ。
波照間に昔から呉根財という台湾人が住んでおってですね、親父とこの人は知り合いで、だから波照間の人とすぐ仲良くなれたんですかね。僕もこの人の子どもと友達になってよく遊んだりしたんですよ。親父は、「葛刈ってきなさい。私が植えてあげるから」と。
波照間の人たちはマラリアがひどくなって、それから島に帰ったけど、帰ってからね、亡くなる人が多かった。
あとで親父なんかが言っていたんですがね、あれだけの牛をね、アメリカが上陸するからと言って、食べられたらいかんからといってね、軍が牛を全部死なしたらしいですよね。それが毒素を発生させたんじゃないかと、だからあんなに人が死んだんじゃないかと、親父なんかは言ってました。はい。
あとで、終戦後名蔵に引き揚げて、波照間の人が困っているからというので、親父が、トラックの1台ぶんかねえ、何千キロかの芋を送ったんですよ。波照間の人はね、港で涙を流して受け取ったらしい。

戦争が終わるまでヤッサにいました。そして、親父なんかがどういうプラン立てたか知らないが、石垣に帰らなくちゃならないということで、そのうち引っ越しということになった。用船して。若い牡の水牛一頭と交換で。
僕らの家族を石垣まで連れて行く船賃として若い牡の水牛を渡した。体格の良い牛で、手放したくなかったけれども、仕方ない。金はないし、もうどうにもならんから水牛とバーターしてですね。船の持ち主は新城さんと言ったと思いますが、あの人のくり船が一番大きかったですからね。
6頭つれてきた水牛はこの1頭だけ残っていた。
この船で、祖母さん、親父、お母さん、僕と、生まれたばかりの弟と、それにもう一人、使用人がいたと思いますが、石垣島に向かったんです。はい。

 


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