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トップ  >  はいの晄の八重山  >  秋雄おじいの昔語り 第5話|はいの晄の八重山

秋雄おじいの昔語り 第5話

第5話 カードの山を開く
「ひとつ言えるのは、八重山の、只メシだけは食べた覚えはない、と。八重山に尽くしたことはあっても。これが誇りですよ」

芋づくり

1945年(昭和20年)秋頃の石垣港桟橋
1945年(昭和20年)秋頃の石垣港桟橋
戦争が終わって、大原から石垣島に戻った。石垣の町では、親父の友達の大きな料亭に家族でひと晩泊めてもらって、僕と親父は名蔵に家を探しに行った。ふたりでクウドウ回りで。今の島尻商店から神田橋方面に向かって200メートルほど行った右側に江本さんという方が住んでいた家があって、そこを借りることになった。たぶん家も畑も放棄して台湾に行ったんでないでしょうかね。名蔵はもうほとんどバラバラになって、ほとんど台湾に帰られて、死んだ方もいるし、舞い戻って来た方もおるし、戦後また再出発ですね。はい。
あれからその付近の土地をどんどん開拓して広げたんですね。名蔵の畑は平地で、むしろ芋には名蔵が適地ですよね。パインとかバナナなどは嵩田の方がいいけど、芋とか陸稲などは名蔵のほうがいい。むかし軍に納めていた芋畑がそのままあって、芋はたくさんあったし、水牛もいたので開墾できた。
当時は食糧難の時代ですから、石垣の人も袋持って芋買いに名蔵まで歩いて来る時代。ひとりに余計売ったらみんなの分足りないから、ひとり30斤しか売らないというように。疎開から帰って金のない方もおられて、自分の屋敷と交換してくれんかという人もいましたよ。はい。
お金は台湾紙幣もあればドルもあれば日本円もB円とか軍票とかアメリカのお金も2、3種類あったし。どのお金をもってきても、分けてあげたけど、けっきょく売り上げたお金、あとは使えなかったお金もあった。
芋はだいたい農林100号を改良して増やした。芋は2、3年するとスジ(繊維)ができてだんだん退化するんですよ。そうなったら、格好の良い芋を選んで、頭と尻尾を切って植えて増やすんです。バーッと葛が出てきたら、切って(別に)植えて、もう一回、そしてもう一回、3回までおなじ芋から葛をとって増やしていく。立派なもの、スジがなくて、付け根が細い立派なものができるんです。はい。
葛から芋につづくところが太くなってスジがでるともうダメ。葛を増やすときは芋から葛が出たら切って、また出たら切って、3回目に出てきた葛が最高。これが大事。これの繰り返しでなければいけない。そうすると葛はそんなにたくさん出ないけれども芋はこんなに着くんですよね。
宮古の農業試験場でできたミヤナナ(宮農7号)というのもよかったですよ。とても人気がありました。戦後すぐのころ。葛が少なくて、芋が良く付いて、おいしい、皮が赤っぽい芋。  

カードへ

戦後しばらく名蔵で芋を作っていたが、石垣の方もみんな疎開から舞い戻っていらっしゃったし、けっきょく開発された平地である名蔵を石垣の方に明け渡そうと、役所と親父なんかと話し合って、じゃあカードの山を解放しようと。交換条件。名蔵を放棄して山に行くことになった。今から思うととても考えられませんよね。
カードに行くよと言ったら、沖縄(出身)の人に「おまえらはヤキー担めにいくのか、ヤマシシ(猪)の奉公に行くのか」といわれた。何を作ってもヤマシシにやられるもんですからね。笑われましたよ。はい。
(重機などのある)今なら想像できるけど、あの当時はあの山を開拓するなんて沖縄の人には無謀に見えたと思いますよ。しかし僕らには山の中でもやっていけるという自信がありました。将来性としては山に限ると、そう思っていたですよ。
バナナはできるし、パインはできるし。新開地でしょ。パインもバナナも新開地によくできる。もう、そこに望みかけていたですね。堆肥とか肥料とかなかった時代ですからね。けっきょく土の肥えたところ求めて行ったわけですから。木を適当に残せば防風林にもなるし。牛がいないなら、同じ鍬なら山の方が有利。
しかし大変だったですよ。親父も悩んでですね。あれだけ誠心誠意で交渉しても、有り難いという人もあれば、ウラでは悪く言う人もいて。はい。
ひとつ言えるのは、八重山の、只メシだけは食べた覚えはない、と。八重山に尽くしたことはあっても。これが誇りですよ。ホントに苦労するだけやってきたですね。ある人が「廖見福があとふたりいたら八重山はもっと発展しただろう」と言っていましたね。
反対する方もおりましたよ。茶山のあたりで点々とやってる方たちはそこに落ち着いていましたから、何名かはカードに入らなかったんでないですかね。強制ではなかった。
カードの入口から20軒ぶんの土地を分けて道の両側を開拓したんです。クジを引かしたんですよ。あっちは誰、こっちは誰と。クジ引いたら、もうその通りに。上にも下にも、白水の田んぼのところまで伐採する、山も伐採する、石があるかどうか当たってみないとわからない、とにかくクジを引いた場所からそのまま原野に向かって伐採していった。(カードに)入らなかった人もおったし、その後またその土地をみんなで分けてですね。
道は奥の方まであったですが、馬の足が、ダブッ、ダブッと入るような道で、そこで滑ったら、とぅ、天ぷらの芯になるよーっ(笑)というようなところ。
一番クジを引いたのは張反という人。次は林塗という方…。とにかくこうしてどこに当たろうがしょうがないということで。自分らは今の嵩田植物園の場所に。もっと奥もおったですよ。今のダムの真ん中のへんまで。奥から3番目の僕らの土地は伐採してみたら、そんなに悪い土地ではなかった。
これから先はパイン、バナナ、ショウガとかミカンとか換金作物として目をつけて、名蔵を放棄して向こうに入ったのが始まり。

開墾

1971年に移設され今は八重山農林高校の東門の前に立つ碑
1971年に移設され今は八重山農林高校の東門の前に立つ碑
カードに入って、宮古の青年とふたりで、まず大きな木の下を伐採して、そこに寝泊まりしながら伐採をつづけた。あれが始まりですよ。小屋もないですから、そのままそこでね。はい。
伐採してよ、焼いて、広げて、それから伐根…。伐採しないと、どれだけの面積があるのか全然想像できないんですよ。ジャングルで、こんな大きい木があるし。伐採した時点から、だいたい方向がわかってくる。東、西というのが。こっちは平坦だ、こっちは石だ、こっちは山だとわかってくるんですよ。そこで、やっと、良いところに当たったなあとか(笑)。 
山を切り開いていくときはですね、最初は下払いするんですね。小さい木をだいたい鉈で切れる分だけ切って、それから鋸で切れる分だけ切っていく。順序があるんです。それから大きい木の枝を落とすんですよ。大きい木の枝も下の方から切っていって、木を丸坊主にするんです。
そして、切った枝葉を1と月か2た月そのままに置いて、親指くらいの枝を折ってみて、乾いたと思った頃に一気に火をつける。火をつけるときは風下からつける。風上から燃やすとサーッと行くから、上だけ燃える。じわりじわりと風下から。風があまり強くない日を選んで、昼から燃やし始めて夕方燃やし終わるような…。
するとこんなに大きいやつも燃えてしまうんですよ。早く燃やしたら生乾きですから大変なことになりますよ。残りますから。今度は取り除くのに大変。はい。燃やし時を見分けるのは大変ですよ。雨期もあるし、乾燥時期もあるし。はい。気持ちよく燃えたら楽しいものですよ。しかし燃え残したらその後かたづけが大変。
枝の中でかなり大きいのだけが燃え残るんですよ。真っ黒ですけどね。それを集めて大きい木に投げてまたそれを燃やすんです。茅を持ってきて。
それでも大きい立木は完全に窒息しないですよ。しばらくするとまた芽が出てくる。これを切れる包丁でなく、鉈のウラで芽が出てくるのをコンコンと叩きながら落とすんですよ。下の方の芽が出るので、2度と出てこないように。包丁で切ると芽が生えやすいんですよ。だから切れないやつで叩いて落とさないといけない。
柔らかい木になるといくら落としても芽が出てくるんですよね。これを窒息させるまで落として、枯らして、風化してひっくり返るまで2、3年かかるんです。大変な作業です。はい。
その間に、周囲の開けた土地には作物を植えるんですよ。パインでも芋でも。そうしながら、このでっかい立木の芽を根気よく潰すわけです。窒息させるために。潰さないと絶対枯れませんよ。
いったん窒息して枯れ始めたら早いんですがね。芽が出てこなくなったらシロアリが一気に食ってしまうから。しかし根を引き抜くのは大変ですから、その部分もゆっくり土にしていくわけです。
ですから焼き畑は大変ですよ。はい。しかし作物はよくできました。その木がすごい肥料になりますからね。立木は目障りですけどね、あまり気にしないですよ。今ならユンボで木を倒すのは訳ないですが、当時はみんな人力ですからね。山はもちろん水牛も入らないです。長期戦ですよ。何を作っても良くできるんですよ。大きい木の下は。
こんなことがありましたよ。むかし、四ヶ部落の馬持チャーが来て寝かしてあるこの枝を薪にするために獲ったんですよ。これはぜったいやってはいけない。枝から葉っぱが落ちるともう燃えないですよ。はい。動かしたら良く燃える葉っぱが落ちるんですよ。そしたら木は木、葉っぱは葉っぱでバラバラになって木の方は燃えなくなる。だから絶対獲らさない。
これでもの凄い事件がありましたよ。台湾のじいさんが「採るな」と言ったけど、言葉がわからないから、四ヶ部落の青年が向かってきたから、言葉がわからないでしょ、このじいさんは家に入って、鍬の楔を抜いて(台湾の鍬の柄は樫で作った堅くて長ーい柄ですからね)、鍬の柄をもって青年を打ったわけですよ。それで四ヶ部落の青年会が怒り出して…。
じいさんは一応警察に連れられて行ったけども、林発さんが行って連れ戻してきましたよ。ところが、その後、町中で、叩かれたということで騒いで、ドラ叩いて、みんな集まって、今晩はもう台湾人の家焼きに行くということでね。
昔は電話もないし、誰かがやってきて、今晩は台湾人の家を焼き討ちすると言っていると。そのとき僕は子どもだから、少し記憶はあるけど、あっちこっち台湾の方集めて、腕のたつ人たちを集めてから、何名は振興橋、何名は嵩田橋、と。もし振興橋から通した場合は嵩田橋で止めれと。
そうこうしているうちに、ようやく林発さんが止めたらしいですね。一応待機をしていたけれども。アレ、来てあったら大変なことになったと思う。僕もあまり知らないんですけども、話しているのを聞いたんです。戦争前ですね。

 


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