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後世の正月

新城 敏男
八重山カタログ「ナネーズ(桑の実)」

テレビのないあの頃、有線放送がほとんど唯一の音による情報源であった。
元旦の朝には、子どもが起きる前から「鷲ヌ鳥節」が流れた。
荘重な歌曲は子どもながらに正月を無事迎えたことを感じさせた。
昨日まで懸命に掃除をし、水港や前の浜から馬車やあるいは人がかつぎ運んで、庭いっぱいに真っ白い砂を敷きつめた。
どの家も同じようで、門松を立てて正月を迎えた。

正月ぬ しとむで
元日ぬ 朝ぱな
東かい 飛びちけ
日ぱ かめ舞ひちけ

元日の朝まだきに、子鷲は東天紅を染むる空をさして勢いよく高く舞い飛び立った、と謡うこの曲に、人はそれぞれに新年の明るさと飛躍、そして生り繁盛を重ねあわせた。
生々流転する世であるが、あの晴れやかさはなつかしい。
昔の正月は旧暦で行われていたが、八重山では昭和十年頃から、次第に新暦にかわった。
人びとは元旦に現世の正月を迎え、一月十六日には祖霊を祀る後世の正月を行う。
十六日祭は、中国から那覇の久米に移住した中国人が、中国の元尚祭にならって正月十五日に飾燈籠を作って祝ったが、のちには新仏に供える十六日の飾燈祭となり、その余風が今の十六日祭であろう、という(「八重山生活誌」)。
一七三六年に蔡文溥が編んだ『四本堂家礼』は蔡家の家訓であるが、当時の久米村の礼式や習俗を知る重要な資料で、その写本は八重山にも弘く分布している。
それには、正月十六日に霊前に白粥を供え、子孫男女とも皆墓所へ参り、御茶、御酒を供え焼香して拝むこと、とある。
しかし人びとの祭祀は次第に華美となって、一八五七年の検使翁長親方は、先祖の墓所へは菓子・〆物を供え焼香するよう申し渡してあるが、守られていない。
今後は財力次第で、三味物・餅・〆物・豚肉・揚豆腐・昆布・大根・麦米はんびん類とし、親戚などへは香花だけとするように指令した。
それもあまり守られず、一八七四年の検使富川親方は、改めて倹約令を出している。

昭和四年には冗費節減から十六日祭と清明祭を合併して一日で簡素にすませようとの提言があったり、昭和八年には石垣町聯合主婦会で、十六日祭は質素を旨とし、自家のみに止めることを決議している。
国民精神総動員体制下の昭和十三年には旧正月がすべて新正月になったと報じ、十六日祭も供物は質素を旨とし、祭事は精神的たらしむることと石垣町では協議会決定を出している。
いつも倹約の対象になっているのは高麗餅である。
高麗餅は、米粉に砂糖を加えて蒸した餅菓子で、生年祝いや大焼香の盛菓子の具として盛られたり、十六日祭のお菓子に供えられた。(「八重山生活誌」)

十六日祭の焼香は、すべて墓所でなされたのだろうか。石垣家文書の中に興味深い明治二十一年正月十五日付の一通の願文がある。
それには先祖のうち四人は沖縄で、一人は与那国で亡くなっている。
彼らは旅先で卒去したので、従来は十六日祭は家内に迎えて手向けていたが、今年からは墓所で手向けたい、とのことである。
五人のうち八世長有は一八六八年に死去し、三年後に洗骨して帰郷したが、他の四人はどうされたのか確認できなかった。
旅先で亡くなった人びとの祭祀は、別のやり方をするのが通例だったのだろうか。

先日、東大名誉教授の窪徳忠先生の唐尺の調査の同行して、古墓や新墓をいくつか回ってみた。墓の門や入口は一カ所を除いて、すべて唐尺の財・義・官・本または吉などの良い文字の長さに当たるように設計されている。
唐尺の沖縄への伝播は十四世紀末から十五世紀初頭と考えられているが、八重山でも祖霊の鎮まる墓所は周到に計測し設計され、祀られた。
人びとを守護する祖霊に対する篤い姿勢を、うかがい知ることができよう。。

(情報やいま1993年1月号より)

 


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