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秋雄おじいの昔語り 第6話

第6話 パイン産業の再スタート
「儲けを農家に還元することを考えたんですよね。原料の値段を良くして、だから、もう我れ先にとパインを植え始めたのがパインの隆盛のはじまりですね。」

昭和30年頃の嵩田のパイン畑
昭和30年頃の嵩田のパイン畑
戦争が激しくなって、大同会社もなくなり、台湾の方たちが疎開で台湾に帰ったりして、パインはつくられなくなっていくわけです。
しかし戦後、親父には先見の明があったんでしょうね、親父に言われて、パインの苗づくりを始めたんですよ。はい。
パイン畑は荒れてしまって、ジャングルになっていて、茶山一帯のあらゆる山の中まわって苗を捜したんですよ。ところが、木の下に点々とあちこち自生しておったんです。アレをひっぱり出して、…陰にあるパインは太陽に引っ張り出すとみんな腐れますよね(水分があって栄養がないんでしょうね。ただ生きているだけ。それをいきなり太陽に出すと腐れる)。それをひっくり返して、根っこを上にして、1週間くらい太陽に照らしてから植えるんですが、3分の1しか活着しないんですよ。
こんなにして最初は山から集めてきて、しかし活着さえすれば苗がいっぱいとれるものですから、2、3年で何町歩かに増やしましたね。今の品種はみんなパイン(果実)に栄養が行って苗が1、2本くらいしかとれないですが、あの当時の品種は苗がいっぱいとれるのでどんどん増やしたですね。
缶詰をつくるもんだから、伊野田の部落に奨励して植えてもらったんですよ。苗を1本貸すから3本返してくれと。これをまた別の生産者に植えさせる。また3本返してもらう。そして一気に増やしたんですよ。はい。そのころのカードもほとんどパイン畑ですね。
今の嵩田植物園のところに工場をつくったんです。長い茅葺きの掘っ立て小屋でね、20坪の工場。動力がなかったから、足踏みで、パッとこう、芯を抜いて、皮を剥いて、輪切りにする機械を自分で考案して。
嵩田植物園
嵩田植物園
作業ですか? まずパインの根っこと尻尾を包丁で切る。これをサイダーにかけてパインの芯を抜いて皮を剥いて手で仕上げ。それをサイダーで輪切りにする。輪切りにしたものは1級、2級、バラと仕分けする。空き缶を12個ならべて砂糖を入れ、それぞれに輪切りにされたパインを8枚ずつ入れて水を入れる。それを蒸籠で蒸して、湯気が出ているときにひとつずつシーマーという機械にかけて蓋をする。もういちど蒸籠で蒸して真空にするんですね。そうしてやりました。はい。
パインに打ち込んでやりましたね。当時は宮古出身の青年が4、5人、その他に女工の人(ほとんど町の方から)が通って来た。常時17〜18人はいたんでないですかね。ほかにも畑仕事とか、仕事はいっぱいありましたからね。工場はほとんど女性で、男性は僕の他にサイダーをつかう人がいるくらい。
工場を始めたのはウチが一番最初でなかったですかね。そのうち沖縄出身の方でハワイ帰りの大城万栄さんが川原で始めたし、林発さんは四ヶの町なか(今の「りたーん亭」のあたり)でやっていましたね。
いよいよ3者で競争が始まって、しかしウチの方は強みだったですよ、伊野田で苗を奨励し始めてだんだん(苗作りを)広げていましたから。安定していたですね。そこで林発さんから提案があって、株式会社をつくろう、と。それで琉球缶詰を設立したんです(後に琉球殖産株式会社と合併)。
僕はどこまでも反対したんですよ。しかし親父は、「いや、後々のためだから」と。八重山全体の発展のことも考えたんでしょうね。大城さんが社長で、林発さんが工場長でウチの親父が農務課長で、それでスタートしたんです。今の真喜良団地のあたりで。
この3人はみんな農家出身で、生産農家のことを第一に考えて、儲けを農家に還元することを考えたんですよね。原料の値段を良くして、だから、もう我れ先にと(農家が)パインを植え始めたのがパインの隆盛のはじまりですね。はい。
ところが原料が増えすぎて、工場がそれを捌ききれずに余ってしまったことがあった。親父は責任を感じて生産農家のものを優先して、自分の農場の10町歩のパインを腐らせてしまったこともありました。
当時のパインの品種は悪くはなかったですが、無肥料で、自然開花でした。山地を伐採してどんどん作った。原料がダブってもその後もずっと作っておりました。機械もだんだんオートメーション化された。
パイン加工所
パイン加工所
台湾からの女工も入れました。これは特殊な仕事ですからね。向こうの女工はこちらの女工の7、8人分の仕事をしましたよ。今は皮の部分もジュースに使いますが、当時は皮は捨てていましたから、それを一律に機械でやるのは無駄があるんですね、それで人の手が必要だったわけです。台湾は歴史があるからですね、工場の周辺の主婦たちはもう保証されているんです。パイン時期には工場に来るということでね。それで熟練しているんです。やっぱり熟練が必要でしたね。はい。
私は自分の畑で精一杯でしたから会社には入りませんでしたね。車をもって原料を集めて琉殖に納めておったんですが、だんだん下火になって、原料が少なくなったもんですから…。
今のパインの青果は僕らの時代から見れば、ずいぶん良くなっていますよ。品種だけではなくて、肥料とかも、…生産者も美味しさを追求してやっているもんだから。

 


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