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慰霊の日。「伝える」ということを考えた

南野晄爾
石垣島PICKUP☆コラム「慰霊の日。「伝える」ということを考えた」

 6月23日。留魂之碑の慰霊祭。

 留魂之碑というのは『八重山の戦争』(南山舎刊)の著者大田静男さんが個人で建てた慰霊碑である。

 「天皇の軍隊により 人間の尊厳を奪われ無念の死を遂げたアントン丸のひとたち 川平の慰安所で汚辱にまみれ死亡したババハルさん 久部良沖で銃撃にあい死亡し荒野に葬られた女性たち 彼等の御霊を慰め痛恨の叫びを胸に刻み永遠の平和を願いこの碑を建立する 1998年6月23日 大田静男」

 その碑文は建立の趣旨を明確に伝えている。つまり、天皇の軍隊によって無念の死を遂げた人たちの御霊を慰め、(彼らの)痛恨の叫びを(自らの)胸に刻み永遠の平和を願うために碑を建立した、と。

 この日、ハイビスカスとひまわりの花に囲まれ、さらに花束を抱いて留魂之碑は嬉しそうに見えた。思い思いの服装の参列者たちが焼香し手を合わせるのを目を細めて迎えてくれているような…。

 40数名が参加した慰霊祭はささやかだがとても印象的なものだった。まず、大田さんが「彼らの無念の思いを21世紀に伝えることができるか私たちは問われていると思います」とあいさつ。私たちのドゥーハダニンガイ(健康祈願)も兼ねていますので大いに食べ飲み楽しんで下さい、と言い添えた。

 新城知子さんが「胡蝶の舞」を奉納。

 …初春になりば 押す風も涼しや 露受きてぃ咲ちゅる花ぬ 花ぬ美らさ…

 唄・三線・笛・琴は黒島章さんスマ子さん夫妻とその門下。アップテンポな、しかしどこか悲しげな曲に乗って、新城さんの舞うハビル(蝶)は、時に風をはらんで舞い飛び、時に花に憩ってとても優雅だった。昔の人はハビルを人の魂と思っていたのだとか。

 詩の朗読も行われた。山根頼子さんが大田さんの著作から「骨の叫び」と「白水へ」の一部を読み上げた。ちんだら節の笛の音がかぶさって山根さんの声がどこか遠くから風に乗って流れてくるような、そんな錯覚をおぼえた。

 折り折り私は留魂之碑に目をやった。穏やかな夕暮れ。碑を見やりながら「伝える」ことの難しさと大事さについて考えさせられた。八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑の碑文のことをも思ったからだ。

 沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会(篠原武夫会長)は、戦争マラリアは軍命による強制疎開のせいであったとして国の責任を追求し、援護法による個人補償を求めて懸命の活動を行ってきたが、遺族の高齢化などを理由に3億円の慰しゃ事業(記念碑建立、平和記念館建設など)を受け入れて政治決着。今年6月に解散し、10年間の活動を終えた。碑に「軍命」を明記できなかったジレンマを篠原会長は次のように記している。

 会は軍命を明記すべきだと強く主張し、県と激しく衝突することもあった。この文言の取扱いはたいへん難航し、県と会が妥協してできた文言が「軍の作戦展開の必要性から」という文言になっている。碑文は戦争マラリア問題の因果関係等が理解できる内容になっている。(沖縄タイムス・1997年9月19日)

 その碑文を見てみよう。

 「太平洋戦争の末期 沖縄県八重山地域においては 軍の作戦展開の必要性から 住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ 過酷な生活の中で相次いでマラリアに罹患し 三千余名が終戦前後に無念の死を遂げるに至った…」

 たしかに因果関係は分かる。つまり軍の作戦展開の必要性が原因でその結果住民は避難を強いられたということ。

 しかしよく考えてみると、「軍の作戦展開の必要性」を判断し実行したのは誰だろう。天皇か、国か、軍か、知事か、町長か、町内会長か、住民か、あるいはその全部か、時代なのか…。そこが抜け落ちている。自明のこと? いや、曖昧にしているのである。また、「必要性」という抽象的な言葉は「軍の作戦展開」の正当性を主張する役割をはたしている。

 誰がやったのかを曖昧にして、必要性があったから仕方がなかったとこの碑文は弁解をしているわけで、だから当然責任について言及しないし、もちろん「軍命」の文字はない。

 碑文の目的からして「伝える」ことのスタートはまず発信者の明確な意思表示であるべきで、あんなに「軍命」にこだわった援護会がこの曖昧なまぎらわしい文面に妥協したのはどうしてだろう。

 篠原会長は沖縄タイムス紙で、これ以上の解決は望めない、支援を無にしてはならない、遺族の高齢化の3つを慰しゃ事業受け入れの理由に挙げている。今しかない、という判断である。次のようにも書いている。

 「(御霊を慰めることは)国の責任において犠牲者の名誉が回復できるかできないかということである。会は慰しゃ事業によって犠牲者の名誉が回復できたと考えている」

 援護法が適用できない以上、慰しゃ事業という形であれ国が補助をしたということは責任を認めたということであり、それによって犠牲者の名誉が回復されたという認識である。

 はたしてそうだろうか。もしも国が責任を認めたのならこうまでして「軍命」の明記を避けようとするはずがない。それとも程度に応じた責任というのがあるのだろうか。戦争マラリアの責任の程度は「軍命」を明記するほどのものではない…と。

 犠牲者の名誉の回復が御霊を慰めること、であることには同感である。しかし問題は名誉の回復の中身である。この場合、私は「軍命」を明記できない慰霊碑が犠牲者の名誉を回復し得たか疑問に思う。もしも私が犠牲者であったなら、なによりも「軍命」をしっかりと明記して欲しいと思う。

 碑を建て、線香をあげ、花を手向けるのは、極言すれば生きている者の都合であって、死者の願いは事実を「伝える」ことではないだろうか。それが無念で悲惨な死であればあるほど死者はそう願うだろう。

 ところが、私に言わせれば、援護会は生きている者の都合を優先させてしまった。その生きている者の都合というもの、とても歴史に耐えられそうにない。大切なのは死者の意志を「伝える」ことを第一に考えることだったのではないだろうか。

 当然のことながら、「伝える」ことの中には死者の意志をどう受けるか、という受け手の態度が含まれる。科学的な判断力と内向する目、想像力などが必要となろう。

 ドゥーハダニンガイも兼ねた留魂之碑の慰霊祭はなごやかに延々と深夜に及んだ。これに参加するために北海道からやって来た舛甚美恵子さんが「死者は語らないって人はいうけど、本当は死者は語るんですよね」と話していたのがその夜の情景と合わせて心に残った。舛甚さんは大田さんのことを言っていたのかもしれない。

(情報やいま1999年8月号より)

 


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