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小浜島の「ウカー文化」と島の未来

小浜島コラムちゃんぷる〜「小浜島のウカー文化と島の未来」  小浜島の集落から大岳につづくウカー道沿いの田んぼが復活しつつある。
 「ウカーいなほ友の会」のメンバーが中心となって島の文化の継承と田園風景をと田づくりに励んでいる。
 島のシンボル大岳を背景に、名木・一本松、「山の子守唄」の歌碑、田んぼの畦のウラジロイチゴやテッポウユリ…。
 夕方になると三々五々人々が集まって、そこは穏やかな笑顔と和やかな笑い声に満ちる。
 なかなかいい風景である。

 「ウカー文化」の提唱者である黒島精耕さんにその内容を書いてもらい、「ウカーいなほ友の会」の中心メンバーに、米づくりとそこから見えてくるもの、小浜島の将来についても話してもらった。


「ウカー文化」は島の縮図 〜小浜島の伝統行事と祭りのこころ〜
黒島精耕・文

ウカー文化のシンボル「山の子守唄」

 小浜島集落の北方ウカー道を通って大岳に向かう途中、名木「一本松」に隣接するふたまたの一角に、建立して3年を迎えたばかりの「山の子守唄」の歌碑が建っている。

  ねんねんほろろん  ほろほろねむれ
  裏の小山にゃ  夕日がさして
  ほろろんほろろん  小鳩もなきました
  ねんねんとろろん  とろとろねむれ
  裏の小川にゃ  すすきが散って
  とろろんとろろん  蛙もなきました
  ねんねんねむれ  夜までねむれ
  鎮守の森には  小鳥もねたよ
  ぽっかりぽっかり  白い月ばかり

 この歌詞の中の「裏の小山」は大岳、「裏の小川」は小池(島ではクモール)、「鎮守の森」は嘉保根お嶽を指しており、これらを背景にできたのが宮良高司作詞・宮良長包作曲の「山の子守唄」である。
 「山の子守唄」の歌碑は宮良長包生誕120周年を記念して島の有志によって建立されたが、そのときのわたしたちの思いは、歌碑の建つ周辺を「ウカー道一本松ひろば」と名づけ、そこを心のふるさと・オアシスの森にし、島の活性化・地域おこし・むらづくりの拠点にしようというものであった。
 大岳に通ずる道路を島で「ウカー道」というが、この道を挟んでこれにつながる行事や祭り等の文化を、わたしは「ウカー文化」と称しこの文化の掘り起こしと継承発展、そしてこれからの新しい島の文化のあり方を求めようと提唱している。

ヤマンダ田原の復活と「ウカーいなほ友の会」

 島にはかつて米づくりの宝庫としてハインダ田原やニシンダ田原などがあったが、島の基幹産業としてのサトウキビづくりが盛んになり小浜製糖工場が建ち、また近年畜産農家が増えるようになって、ニシンダ田原はキビ畑に変わりハインダ田原は休耕のまま次善策を待っている状態である。
 このような現状の中で、島の祭りが稲・粟など五穀を軸に形成されていることを踏まえ、せめてヤマンダ田原(ウカー田原含む)だけでも島の米どころとして残そうとの思いと危機感から、最近、ウカー道沿いでは田づくりが復活しつつある。
 そこで田づくりをする人たちを中心に昨年5月「ウカーいなほ友の会」が組織された。米づくりの重要性を認識し、地域おこしに関心を持ち、「結いの精神」をもって新しい島づくりに取り組んでいこうということである。具体的な活動としては、稲づくりの生産向上およびウカー文化に関するイベント、さらには名木・一本松及び「山の子守唄」の周辺整備などがある。

ウカー文化の基軸・お嶽信仰

 島には正月元旦のお嶽参りをはじめ、ハツニンガイ(初願い)やウーニンガイ(大願い)等、暮らしの中に祈りに始まり祈りに終わる根強いお嶽信仰がある。島には、小浜島発祥にまつわるイーリワン(西山お嶽・島ではお嶽のことをワンという)、ナカワン(仲山お嶽)、アールワン(東山お嶽)の各お嶽があり、いずれもウカー道に沿って連なっている。
 島のお嶽のルーツを解明していくうえで、わたしがとくに注目しているのがティダクシワン(照後お嶽)で、このお嶽は大岳の南、ナカワン(仲山お嶽)の西方に位置し、島の最北端ユンドレースクのティダクシワン(照後お嶽)がウティスク山・コーキワンを経てこの地に遷座しイリワン(西山お嶽)となったと伝えられていることである。
 特に私の注目はティダクシワンの名称のティダクシが、大日如来をご本尊に迎える空海の真言密教・熊野権現に由来するのではないかとの関心事からであるが、このことについてはここでは単に指摘するにとどめ、今後の課題としたい。

春は「うろんつんぬジラーン」から

  ヘイヤー  うろちぃぬ  若夏ぬ  たちゅたら  ヨーナーエオー
  ヘイヤー  しとぅむてぃに  朝ぱなに  うきゃうり  ヨーナーエオー

 万物が精気づき、野に山に草木が新芽を吹き出す3・4月のウリズンの頃になると、小浜島では、どこからともなくこんな歌声が聞こえてくる。懐かしい「うろんつんぬジラーン」である。
 島では古くから、ウリズンのことを「うろんつん」、ジラバ(古謡の一種)のことをジラーンと表し、島独特の歌い方をする。この季節になると、だれ歌うともなく口ずさみたくなるのが、島の数々ある古謡の中で最も親しまれているこの歌である。わたしにとってこの歌は、ふるさとの春の訪れを実感させるとともにいろんな思い出を甦らせてくれる。
 幼少のころ、田んぼの畦で鳴いている蛙の声を聞きながらの田草取り、ゴッカラン(アカショービン)の鳴き声が耳にこびりついて離れない豆取り作業、男女が交互に掛け合うユンタ・ジラバを歌いながらのユイマール作業…。つい昨日のことのようによみがえってくるのである。
 とくに忘れられない思い出は、中学校時代に早起きして豆取り作業をしたことである。ここでいう豆とは大豆のことで、これは五穀の中でも島特産の「小浜豆」として広く世に知られていたが、日本の高度成長期のあおりを受けて若者が島を出て過疎化が進み、小浜製糖工場ができさとうきび生産が盛んになり、豆づくり農家が減り、ついに小浜豆は島から消え失せてしまった。
 わたしたちの中学時代は、戦後まもない1950年代のころで、物はなく、生活の苦しい時代で、わたしたちは当時、生徒会費や修学旅行費に充てるために早起きをして豆取り作業をしたのであった。修学旅行もいまとは違って、石垣島一周を3泊4日もかけて、しかも徒歩で学校を宿泊場所にしての旅であった。いまのように道路が整備されてなく、川平に行く途中、ちょうど満潮時に逢い、ズボンをまくりあげて川を渡り、やっとの思いで川平校に着いた思い出がいまでも胸中に鮮明に残っている。
 ウリズンの季節になると、このようにあの日あの頃のことが、いろいろと懐かしく思い起こされるのである。
 また、あまり知られていないが、島には「さんどぅきぬジラーン」や「ちんだ入りぬジラーン」があり、ユイマール等の作業時に歌われていたという。
 「さんどぅきぬジラーン」は、青春期の若者が初恋に失敗した失恋の心情を赤裸々に描写したものである。その当時はさんどぅき(申時)、すなわち午後4時頃ともなると、若者は農耕に精魂を打ち込むことができず、今夜の遊びに思いを馳せていたようである。 歌の主人公の若者も恋人との約束があったと見えて、さっさと帰宅し水浴びをして全身の汗を流し、母が洗濯してくれた衣装を手早くかけて約束の場所に行こうと門を出たところ、思いがけなくも約束していた娘にばったり行き逢ってしまった。ここで恋する乙女を逃がすまいとして、彼女の手を握ろうとしたが、嬉しさのあまり身震いして手が出せず、むしろ積極的な男性を求めていた娘から見放され逃げられてしまったというものである。
 「ちんだ入りぬジラーン」も内容的にはやや似ているが、これは既に恋愛を体験した若者の心情を表現している。当時は何の娯楽もなく、島の若者にとっては、ただ夜の自由な男女の交遊のみが何よりの唯一の楽しみだったのである。
 そのウリズンのころに「ウカー道いなほ友の会」は誕生した。昨年5月の夕暮れ。ウカー道沿いの一本松ひろばで10数名の若者が集い「うろんつんぬジラーン」の歌会をもったときに、この機会に「何らかの組織をつくろう」ということになったのである。新しい島づくりのことも考えながら。

島最大の行事・豊年祭

 ウリズン・若夏が過ぎて田に稲穂が熟れ収穫期が終わるころ、島は夏本番を迎え、夜ごとに豊年太鼓の音が聞こえやがて一年で最も賑わいを見せる豊年祭を迎える。
 島の年中行事・祭りは農耕儀礼と深く関わり、伝統的に受け継がれてきている。祭りのほとんどがワーン(お嶽)を中心に神女(司)たちの神への敬虔な祈りから始まる。五穀豊穣をはじめ島の反映や無病息災・健康願いなどの祈りである。
 豊年祭は島の行事の中でも最大の行事で、島外からの人々をふくめ島の人口はおよそ2倍にもふくれあがり、最も賑わいを見せる行事として広く知られている。昔から島の豊年祭には厳しい掟があり、口外することは堅く禁じられている。島の長老たちはこの行事に命をかけ、先人たちは「ポールヌユンドゥ、ヌッツァーアタラール(豊年祭のために命があり、その心を大事にしている)」とまで言われ、アカマター・クロマター信仰の深さをよく表している。
 豊年祭は旧暦6月の「壬」の日から3日間おこなわれる。 1日目は、ワーンポールといって、各ワーン(お嶽)ごとにヤマニンジュ(氏子)がそれぞれの家庭から持ち寄った供物(芭蕉の葉っぱで包んだ餅やウサンダイ等)を供え、スーッピィ(1年間の神への謝礼)を神前で厳粛におこなう。神への祈願は司やブナンツ(女性)たちが中心で、男性はイビから遠く離れた場所からイビに向かって手を合わせ礼拝をおこなう。各ワーンでは氏子の若者たちがご馳走をこしらえ、ヤクジュ(旧公民館の役員や来賓として案内した島の主なる官庁や会社等の長)を迎えもてなし、初日の行事を終わる。
 2日目は、ナビンドーポールである。朝6時からナビンドー(地名)の聖地で五穀豊穣を祈願し、終日祭りを盛り上げる。そして夕方になると、神聖なアカマター・クロマターが出現し祭りのクライマックスを迎える。その後アカマター・クロマターをお供して集落に入り、若者を中心に夜を徹し各家庭をまわって、1年間の五穀豊穣と無病息災を祈願して豊年行事の2日目を閉じる。
 3日目は、イローラポールである。午前10時頃からイローラ(地名)に集まっての儀式がある。その後ドゥハダ願いといって、それぞれ年代別にグループをつくり各家庭をまわり、仏壇の前で手踊りをしながら祭りを楽しみ、シネヌハーマの時間を待つ。そして夕日が沈むころになると、当年37歳の人があたるシネヌハーマの儀式が公民館長宅・南北部落会長宅・前本家でおこなわれ、これが終わると若者たちが集落の中心地ナカミチに集まり、豊年祭歌のすべてを歌い3日間の行事を締めくくり、祭りを終了する。

先祖供養のお盆行事

小浜島コラムちゃんぷる〜「小浜島のウカー文化と島の未来」
1972年。ドゥハダニンガイで集落内を歩く(竹富町史写真集『ぱいぬしまじま』から)
 当初わたしは、お盆をウカー文化に含めてよいものか迷いがあったが、ウカー道の先には黒島・成底家をはじめ竹富・西盛・前泊・宮里・大久家等の墓地群があり、そこに春は「うろんつんぬジラーン」からは祖先の霊が静かに眠って盆行事と深い関わりをもっている。このことから、敢えてわたしは島の念仏行事をウカー文化に含めて考えることにした。
 島のお盆行事は旧暦7月13日から16日の4日間にわたって行われる。初日は精霊を迎える日で、仏壇には三方(盛り物・甘蔗・果物・甘藷など)、ハナングミ・ミンツヌコ(水の子)・お菓子・グシパナ・提灯等を飾り、夕暮れ時に門口で松明を燃やし、家族全員で香をたいて精霊を迎え、先祖の供養をする。
 昔からのしきたりによって各家庭での行事がすむと、ごく身近な親戚の家を訪ねティサイ(祖先の霊に合掌)をおこない、その日から始まるニムチャー(念仏歌謡)に加わる。島ではニムチャー集団によって念仏歌謡と踊りが3日間各家庭を巡っておこなわれる。初日は「七月ニムチャー」を中心に、小学生以下の子どもらによってボーヤマ(棒)・ハナ(花)・アブル(クバ扇)・シッチャー(手)踊り等がそれぞれ交互におこなわれ、午後10時頃には初日の行事を終わる。
 2日目もニムチャーニンズ(念仏歌謡集団)が各家をまわってウヤビィト(ご先祖)の供養をするのであるが、初日と違うのは歌の内容が「ンゾニムチャー」に変わり、午後10時頃からはアンガマが出現して得意の舞踊等で座を盛り上げる。
 いよいよ3日目は精霊を送る日である。夜半(午前0時)の鐘の合図で、初日の迎えの日と同じように松明を燃やし、門口に向かって庭にむしろを敷き、仏壇に供えてあった品々を降ろし、その中から「ハツ」だけを取り出して飾り、家族全員で線香をあげ合掌して精霊を送る。そのとき、昔からの習わしとして小浜家では独特の「イランゾーサ」の念仏歌謡が歌われる。
 精霊送りが終わって午前1時頃からドゥハダ願い(健康願い)に移る。老若男女が一緒になって中壮年の方々の家庭を回る。まずその家の関係者が「御前風」を踊ったあと、代表者の一人が島の方言で思いを述べ自慢の芸を披露する。その後はその場に参加している者がそれぞれの自慢の芸を披露し座の雰囲気を盛り上げる。送りの後は主として「ヤマトヌヤマサンツ」の念仏歌謡にあわせて踊る。雰囲気もこれまでとは一変して、座の心が一つになり、軽快な舞踊が展開される。
 また3日目には、年輩の人たちによって「ウムイヌヤームトゥ」「ンマナマス」「イランゾーサ」等、島独特の歌謡がうたわれ、無病息災・健康願いは夜を徹し明け方までおこなわれ、4日目の行事を迎える。
 4日目は、まずナカミチにおける明け方早朝の伝統行事である島独自の念仏踊り「ジルク」から始まる。南北両部落の若者たちが女装して、笛を先頭に太鼓やションコン(鉦鼓)を打ち鳴らし、掛け声勇ましくクバ扇と手振りで相手を招くような仕草をしながらゆっくりと相寄り合流し、南北の心が一つの輪になり一体となって踊る姿はまさに感動的であり圧巻である。ここでは北部落の「ジルク」から始まって、次に南部落の「ミンマンブンドゥル」が踊られる。ミンマンブンドゥルは他の地域では見ることのできない島独特の念仏踊りである。
 これが終わると、公民館長・部落会長より3日間にわたっての盆行事が無事に終了できたことに対するお礼のあいさつと恒例の道路作業の日程等の話があり、一段落したところで再び笛・太鼓の音に合わせてそれぞれ部落へ去っていく。その後部落単位でおこなわれる午後からのドゥハダ願いの段取り等について話し合い、朝の行事を終える。
 午後は各部落で、今度は年長者の家庭をまわり健康願いをする。途中、庭の広い家を見計らって島独特の「巻踊り」が踊られる。これが終わると、最後は部落会長宅で獅子舞でもって行事を締めくくり、4日間にわたる盆行事の全日程を終了する。

秋は華やかな結願祭

小浜島コラムちゃんぷる〜「小浜島のウカー文化と島の未来」  結願祭は旧暦8・9月の「つちのと亥」の日から始まり、今年の豊年に感謝し来年の五穀豊穣を祈願して「スクミ」「ショウニツ」「トゥンドミ」の3日間にわたって行われる。
 初日のスクミ(予行演習)は南・北部落別に行われ、午後2時頃から、北ではメーラク(弥勒)、南ではフクルクジュ(福禄寿)の行事があり、その後引き続きシュリチュ(各集会場所)で棒・太鼓のスクミを終え、夜は8時半頃から狂言の部と舞踊の部のスクミが行われる。
 2日目はショウニツ(本番)で、嘉保根お嶽の神前で民俗芸能(太鼓・棒術・獅子舞・狂言・舞踊等)が奉納される。まず庭の奉納として北部落のメーラクの座マールと太鼓・棒・獅子舞、続いて南部落のフクルクジュの座マールと太鼓・棒・獅子舞がある。その後棒術の芸が披露され庭の部の奉納を終える。
 次は舞台の部。特設の舞台ではまず前半にメーラクとフクルクジュのファーマー(子孫)たちによって数々の演技が披露される。後半は北部落のシュンギン(初番狂言)に始まり、北・南交互に、昔から継承されてきた民俗芸能等が奉納される。主な演目は次の通りである。
 【北部落】
  舞踊=小浜節・ハピラー・ブーピキ・いにまつん等
  狂言=シュンギン・カンザク狂言等
 【南部落】
  舞踊=かせかき・天加那志・四ッ竹等
  狂言=シュンギン・サクボー狂言等
 3日目はトンドゥミ(締めくくり)で、部落別に午前中は結願祭行事についての総会を開き会計報告等をして締めくくり、午後からはスクミの日と同じ要領で部落別にトンドゥミが行われ、翌晩のタマスコーサミをもって結願祭行事の全日程を終了する。 なお南部落では大正のころまで、疫病や災厄をもたらす悪霊を追い払う民俗歌舞として「ダートゥーダー」が演じられていたが、その後、世果報を祈願するフクルクジュに変わって現在に至っている。ダートゥーダーは近年見直され、4年前からは舞台芸能として復活し神前でめでたく奉納されることになった。

冬は種子取祭で五穀豊穣の祈願

 種子取祭は、農家にとっては大事な行事の一つで、旧暦10月の「壬または戊・午」の日に行われる。以前は3日間にわたって行われていたのが、新生活運動の名のもとに改善されて、今では従来の行事は1日で終わり、2日目は農事視察をしたあと農事懇談会に切り替わっている。
 種子取祭は、お嶽ごとにヤマニンズ(氏子)が集まり神前で祈願をした後、ヤマニンズは神司を先頭に年長者を案内して各戸を巡り道うたの「種子取節」を歌い歩く。各戸を訪問して座敷に上がると、まず年長者の順にお神酒をいただき、「根ウリ」といってあぐらをかいて安座する。その後、数々のアヨーやジラバ、ユンタ等を歌いその場の雰囲気を盛り上げる。例えばアヨーでは「稲ガ種アヨー」をはじめ「山カシヌアヨー」「ヒャンダン嶽アヨー」「ウムトゥ嶽アヨー」「ククル嶽アヨー」など。そしてその間に種子取節の歌詞を数々の民謡の旋律に乗せて歌うのである。
 こうして夜が更け、ほのぼのと明けゆく東の空を仰ぎつつ歌い歩くのが「ファームレ唄(子守唄)」である。この歌は一面石垣島の「アガローザ」に似ているところがあるが、あくまで小浜島独特のもので、島の人たちはその歌に魅せられ、夜明けのファームレ唄を待ちわびたものである。
 以前は子どもたちによるガーラ(丸太を切ってつくった輪)転がしや競馬なども行われていたが、今ではその面影はまったくなくなっている。昔のしきたりはなくなってしまったが、改めてその意義を問い直し、良いものについては復活をはかり島おこしの原動力にしたいものである。

結びに

 以上、見てきたように、春・夏・秋・冬と島の1年間の祭りや行事を振り返って見たとき、どれもこれもウカー道と深い関わりをもっていることがわかる。まさにウカー文化は島の縮図といえよう。
 最後にひとつ触れておきたいことがある。それはこのたび「小浜島の盆・結願祭・種子取祭の芸能」が重要無形民俗文化財として去る3月7日に国から正式に認定を受け、8日にはその認定証が交付されたことである。そのことについては3月20日付けの『八重山毎日新聞』にその意義と展望について私の論考が掲載されているので興味のある方はお読みいただきたい。 さて、こうして書いてきて改めて思うことは次のことである。
 島には年中「祭りの心」がある。春は「うろんつんぬジラーン」で始まり、夏は豊年祭や祖先供養の盆を迎えて、秋は結願祭で賑わい、冬は種子取祭で五穀豊穣を祈って歌う。
 この祭りの心から島の芸が芽ばえ、島人の心を一つに結び合い、「ミリク世果報」を迎える。島の芸能が国指定になってさらに大きく花開き、実を結び、「むかし世・かんぬ世」が訪れることを請い願うものである。


[座談会]米づくりから見える島の心と未来
小浜島コラムちゃんぷる〜「小浜島のウカー文化と島の未来」
参加者(発言順)
仲盛長儀(60)農業、元公民館長
黒島精耕(69)農業、元竹富町教育長
前泊竹宏(58)会社役員、現公民館長
山城貞一(62)会社役員、元北部落会長
大盛肇(52)農業、現公民館主事
大久喜一郎(30)会社員、現青年会長


「ウカーいなほ友の会」結成

―みなさんは、集落の北側から大岳に広がるウカー地区は島の縮図であるとして、そこにかつての田園風景と文化を復活させようと「ウカーいなほ友の会」をつくられた。まず、お一人ずつウカー地区への思いや会との関わりなどを話していただけますか。

仲盛
 私はずっと島に住んで、いろんな仕事をやりながらも20歳からこれまで米づくりをやってきました。私は島が好きで、島の民俗芸能が好きでこれまでやってきました。島の行事はすべて神行事。その根本になっているのは何かというと、稲作儀礼なんですよね。ウカーでたまたま空いている田んぼがあったものですからそこを開いて、ちょうどそこには(黒島)精耕先生の田んぼもあって、先生は校長を退職されて1年田んぼをやって、それから教育長になられて、そしてまた帰っていらした。せめて大岳の裾野ぐらいは昔の風景をと精耕先生と話していた。小浜節には「稲粟ぬ稔り弥勒世果報」「チヂ(粒)美らさあてぃどぅウハツ(お初)上ぎる」と歌われているのに、いまの小浜島の田んぼを見ると荒れ放題なんですよね。種子取祭のときに歌う歌に「ウーカタぬ道から、バキナタぬ道から」とあるんですよ。これは神の道なんですよ。その後に続く歌詞が「山ぬ端ぬユシキ(ススキ)に、道ぬ端ぬニーバイ(チカラグサ)に」。このように根を生やして欲しいとなるんですが、ウーカタというのはウカー田であると私はずっと思っていて、精耕先生が中心になって「山の子守唄」の歌碑を建てたときに、ここはモノになるなーと。ここには一本松もある。キレイにして、誰が見ても「ああ果報ぬ島だ、米の島だ」と。精耕先生が帰ってきて、公民館長も、大盛肇君も田んぼをやり始めた。青年たちも加わった。そういうなかで去年の5月の初めに、ちょうどユリの咲くころ、うるずんの時季ですよね、この原風景のなかで「うろんつんぬジラーン」をやったんです。そのときに「ウカーいなほ友の会」をつくろうということになった。そこで精耕先生がいろいろ勉強してきて「ここは島の縮図じゃないか」と。…田んぼは田んぼらしく、畑は畑らしく…、それが私の思いですね。
黒島
 「山の子守唄」の歌碑のことから話しますが、県の教育長会議が与那国であったときに、花城正美君が久部良の校長だったので私は彼のところに泊まって酒を飲んだ。そのときに、彼が(宮良)高司先生から「山の子守唄」の舞台は小浜島だと聞いたというもんですから、「よし、分かった。君がこのことを新聞に投稿すれば、僕が責任をもって歌碑をつくる」と。そして、9月1日、彼は僕との約束を守ってほんとに新聞に投稿したわけですよ。新聞投稿から歌碑の完成までわずか2か月しかなかったんだが、男の約束だ、大変だったけども正美君と連絡を取りながら募金集めから何から走り回った。そのとき島では、仲盛さんが公民館長、北部落の会長が山城貞一さん、南部落は長田一男さん、石垣の郷友会は金城英皓さんが会長で、みんなが募金に走り回って協力して11月15日の除幕式までわずか2か月でこの事業を成し遂げたわけです。歌碑の場所は歌詞にゆかりのあるところ、ウカーの今の場所になったわけです。そしてその歌碑のところで「うろんつんぬジラーン」の歌会をもったときに、その時はまだウカー会ではなかったけども、とにかく何か組織をつくろうや、と。幸い青年たちも集まってくれていましたので、一緒にやろうなあと。そして、あれから規約も作って「ウカーいなほ友の会」ができたわけです。その間、石垣に出たときに根本宏佑先生と飲んでいて、非常に激励を受けました。「ああ、島に行ったとき気持ちいい」と。ところが、(ウカー道の)上の方は気持ちいいけど下の方が荒れているなあ、と。そこで青年会も下の方の、町長(大盛武竹富町長)の田んぼを開けるし、その下の方も田んぼをつくるようになってどんどん田づくりが広がっていった。ウカーで田んぼをつくることは僕にとってはふるさと再発見でした。そこから「ウカー文化」という気づきもあったわけです。
前泊
 昔はこの辺はもう空いている田んぼがないというくらいの水田地帯で、私の土地もこの間切りにあるんですよね。時代が変わって、だんだん田んぼがなくなって淋しい思いをしていましたね。小浜節にあるように「大岳に登てぃ うしとぅゆみ見りば」と言ってももう黄金色の稲穂がなくて淋しい。「あんたも田んぼあるじゃないか」と言われて、簡単に「やるさあ」と言ったのが始まり。会社もあるもんですからね…。しかしやってみたら、楽しいですね。今はもう、毎日、毎朝毎晩、見に行くんですけどもね(笑)。小浜は天水田ですからね、田んぼは日曜日の雨の日が最高ですね(笑)。ほんとに荒れ放題のところが、わずかな期間で今のようになったなあと。小さい田んぼですけどね、実際に自分で植えて、手入れして、稔りの秋を迎える、そして「ウハツ(お初)上ぎる」。それを神前に供えて、これは、その上もない喜びだなあと思いますね。今まではお店から買っていたお米を今からは自分でつくったお米を食べられる幸せ、ですよね。ウカー文化については、ああそうだなあ、と。そう思うことで意義も見いだせますよね。そして、これをまた自分の子どもたちが引き継いでやってくれるとしたら非常に嬉しいですね。ところが、いま僕の子どもは青年会におるんですが、青年会の田んぼだけやって僕の田んぼは全然さわらない(笑)。しかし稲作体験を通じて若い者と我々の気持ちも繋がったような…。ま、喜んでみんなやっていますよ。すべて稲から始まった神行事、大事にしたいなと思ってますし、それが若い者につながればなあと励ましながら、また彼らに負けないように頑張っていきたいと思っていますよ。定年したら? もっと本格的にやろうかと思ってますね。ハイ。
山城
 先ほど精耕先生の話に出ましたが、ちょうど北部落の会長をしたときに「山の子守唄」の歌碑建立に関わったのがきっかけで、今またウカーいなほ友の会も、私もやってみようと。私は石垣と小浜を行ったり来たりしながら、仲盛さんから指導を受けながら田んぼづくりをやっている状況で…。しかし、向こうの田んぼがどんどんキレイになっていくのに、自分のほうがついて行けない状態で、はたして自分はついて行けるのかなあと心配しながらやっています。2番目に広い田んぼなんですがね(笑)。
大盛
 米づくり全盛のころに僕は小浜で育っているわけなんですよ。それから石垣に出ましたが、田んぼの風景を見ると、たとえば名蔵の田んぼが黄金色に染まるのを見たりするとホッとしたわけです。そして4年前に帰ってきて、先輩方に教えてもらいながら、去年から自分で植えて収穫までやってきたんですが、自分で米づくりをすると「一粒たりとも捨てられんぞ」とむかし親に言われたように子どもたちに言えるわけですね。公民館の役員をして行事等みていると先輩方が言われているようにすべて小浜は米の文化の島で、ああ小浜島に生まれて小浜の文化のなかで生きることができて良かったなあと思いますね。今度は子どもたちがこのことをわかってくれたら幸いだなあと。青年会もまたよくやってくれて、ウカーは今はもう、気持ちがいい。先輩方は「仕事はできないけどもウカーの田んぼを見るとホッとする」と言っている(笑)。

青年会の米づくり

大久
 毎年、青年会で「ジュングヤ(十五夜)ヨールセーのど自慢大会」をやっているんですが、ここ数年ヨールセー(綱引き)のときの綱はカヤも混ぜてつくっていたんですよ。もとはワラでつくっていたわけだし、そういえば綱引きやっている自分たちは米をつくったことないよな、という話が前からありました。そんななかで先輩方から米づくりの話が出たので、ぜひよろしくお願いします、と。
仲盛
 3年前の成人学級で、十五夜の綱引きにあわせて、綱引きについての講話を石垣博孝先生にしてもらったわけですよ。綱引きが元だよと後輩連中に教えたくてね。私は稲作をずっとやっているもんですから、毎年時期になると「藁をくれ」とくるんですが、「おい、お前たち、まずは手伝いもやってから藁をくれと言え。それよりも自分たちでも作ってみたらどうか」と言ったんですよ(笑)。この行事で地域活性化事業の奨励賞をもらっているわけだから、このさい米づくりからどうか、と。田んぼを開けてあげるよ、苗も分けてあげるよと激励して勧めたんですよ。収穫した米は十五夜に餅でもつくって出せばいいじゃないか、と。

―それで、青年会の米づくりの様子はどうですか。

大盛
 今は田草取り。相当動いているよ。賑やかだよ、今は(笑)。
大久
 ついつい、何気なーく田んぼの近くを通ってしまうんですよね(笑)。今日はたまたま3名でしたが、昨日もその前の日の夕方も(田んぼに)10名余りいましたよ。結構楽しみだけど、みんな、腰痛いなあ、と言いながら、お互いに「ぜったい食べようなあ」と(笑)。米一粒の重さがわかるような感じですよ。あんなに大変だとは思わなかった。初めての経験だし、自分なんかはこれまでの歴史も分からないじゃないですか、だから今は先輩たちからどんどん勉強させてもらっているような段階。
前泊
 あんな狭い田んぼに、ホントに、あふれるくらい…(笑)。あれだけいれば、作業も夕方の1時間ですぐ終わるさ。
黒島
 アレ、もち米だからよ、あんたなんか(青年会は)絶対、餅をつくって食べるまでやらないといかんよ。
山城
 そしたら、ヤラブ木で臼もつくってからに餅つきやったらいいさ(笑)。何でも勉強。
大盛
 臼、ある。僕のところにある。こんな大きいのがあるよ(笑)。
仲盛
 学校にふたつもあるよ(笑)。
黒島
 やっぱり、始めたからには最後までやらないと。あんたなんかはこれから子を産み育てていくわけだから、きちんと小浜の文化を伝えていかないと…。

米づくりと島のこれから

―ところで、ウカーの田んぼはみなさんの楽しみでもあり、コミュニケーションの場であり、果報の島・小浜の文化のシンボルでもあるわけですが、今後はどんなふうに展開していくのでしょうか。小浜を米どころとして復活させる…。

仲盛
 はっきり言って、米で生計を立てるというのは今の小浜の状況では無理な話です。米づくりは水管理が大事で、そのための基盤整理がなされていない。今は水が自由に取れるところしか米づくりをしていない。機械化も難しい。昔は人力でできたが、今はとんでもない、引き合わないです。
黒島
 まず、楽しみなんですよ。1日1日田んぼが変わっていく。色が変わるんですよね。不思議ですよね。これが僕のエネルギーになっているなあと思いますね。難儀ではあるんだけど、楽しみなんですよね。…今後の展望ということですが、基本的には、自給自足。自分が食べるくらいは自分でつくりたいということです。そして、これは祭りの原点だよ、と。祭りがあるから島は成り立っているわけで、祭りが無くなれば島は崩壊しますよ。だから、私たちの米づくりはとても意義があるわけです。さいわい今年は島の芸能が国指定になったし、今後はその展望のなかで僕たちは頑張っていきたいと思いますね。
大盛
 島に帰ってきた当初、米づくりで生活が成り立っていくかどうか考えたことがあったんですよ。知り合いの米屋にきいたら、超早場米ならいけるというんですね。今後はこれも可能性としては考えたほうがいいと思いますね。

―小浜島は伝統行事をみても今度のウカー会の動きを見ても、今後もおそらくその文化をしっかりと継承していくだろうと思いますが、経済的に、あるいはリゾートホテルとはどういう形で行くのでしょうか、島の未来を描いてもらいたいと思います。公民館長、いかがですか。

前泊
 島はだんだん高齢化して働く人が限られて、島の基幹産業であるサトウキビがどうなるかという心配がありますね。現在、生産法人が1つありますが、これをあと2つ増やしてそれぞれ3法人で1千屯ずつ、合わせて3千屯を生産できればと思うんですが…。今年は援農の人たちが少ないですね。働き手をどう確保するか、ハーベスターなどの導入も考えなければいけないし、工場の設備も整えないといけないし…厳しいところがありますね。しかし、島の第一次産業を守ることがまず必要だと思います。最近は畜産農家も増えて、サトウキビは年寄り、若者は儲かるものだから機械化して牛を養うという形になっている。なんとかバランスがとれないものかなあとも思いますね。

―観光についてはいかがですか。

前泊
 観光については…、年間約16万人の観光客だと言われていますが、はたして島の人に金が落ちているかというと、落ちていないと思いますね。船会社やホテルやバスなど一部が儲けている感じで、せっかくのチャンスですから、何かを考えなきゃと思うんですが…。入島料を取るのも難しいみたいですし…。
仲盛
 小浜は商売っ気がまったくないからね。
大盛
 島にはホテルがふたつがあって、たしかに雇用の場がある。しかし、農道をトラクター走らせていると、大型バスが来て、道幅が狭いから避けないといけない。悪うございましたとこちらが言わないといけない状況。農道なのによ(笑)。ま、観光第一、という感じではあるな。これが時代の流れじゃないかな。
山城
 腹が立つのはチリと空き缶のポイ捨て。弁当のビニール袋をカラスがくわえてまき散らす。めちゃくちゃだよ。それと、紙おむつ。紙おむつをビニール袋に入れて自動販売機の横に投げ捨てる者がいる。見つけたの、これで4回目だよ。ゴミの分別化でいま公民館がうごいているようだけど、分別がおこなわれるともっとひどくなると思うよ。石垣市がそうだった。いかにパトロールするかが問題。
大盛
 島の人はこんなことやらんよ。僕の牧場にもゴミがどんどん投げ入れられる。
仲盛
 観光客だけではないですよ。業者にもゴミを投げ捨てるのがいる。ゴミの問題はいちばん難しい。これで公民館もずっと頭を悩ましてきた。

リゾートホテルとの共存

―リゾートホテルとの今後はどうなりますか。

仲盛
 伝統行事は外部の皆さんが入れる部分と入れない部分があります。私の公民館長時代に「ちゅらさん祭り」をやったひとつの目的は、シマ、細崎、それにリゾートがひとつになってコミュニケーションをはかるという場にしたかったからです。これまで「はいむるぶし」さんとはきっちり協定書を交わして連携をとりながらやってきていますが、「ユニマット」さんは歴史が浅いし、そこがまだしっかりできていないですよね。その祭りを通じてお互い島の将来をどうしていくか模索していきたいですね。
大盛
 その通りですよ。昔はみんな知り合いだけでしたが今はわからない人もたくさんいる。「ちゅらさん祭り」を通じて観光関係の人たちとも接点もできて仲良くなれるし、これを続けないと島の未来は見えてこないですよ。島には伝統という骨がしっかりあるわけですよ。人の輪、人間社会の輪というのがしっかりある。現実にいろいろ問題はありますが、これまでも小浜は歴史的にもいろんな問題を乗りこえてきた。島に誇りをもち人の輪でもって問題を解決していけると思います。この島の人はリゾートホテルと立派に共存していけますよ。
大久
 公民館の理事・幹事をしていて思うのは、この島がないとリゾートは成り立たないわけですから、そのへんをもっと理解してもらいたいと思うことはありますね。例えば島に住んでいながら、中には、公民館費をなんで払わないといけないのと言う人も実際いるんですよ。なんで(そんなこと言うの)? と思いますよね。もちろんそんな人だけではないですよ。25歳に島に帰ってきて青年会にはいったら、全然知らない外からの人が多いんですよ。最初はなんだ? と思ったけど、しかし活動するとみんな一緒ですよね。いっしょに楽しく生きていくことができる。

―大久さんは島の将来がどうなって欲しいと思いますか。

大久
 これ以上変わってほしくないですね。中学校を卒業して小浜から出ていって10年以上経って帰ってきたときに、ものすごく島が変わっていたんですよね、びっくりするくらい。ゴルフ場ができたりしていて。そのときに若い仲間たちと、自分たちがしっかりしないといけないと話し合ったんですよ。しかしまた、島に帰ってきて、島のことを何も知らなかったということも痛感したんですよ。だから今まさにウカー会にもはいって先輩たちからいろいろ教えてもらっています。「頑張っているかあ」と声かけられるんですよね。そういう先輩たちがいるんだから、習いながら、いっしょに島のことを考えていけば大丈夫じゃないかと思っていますよ。
仲盛
 傍目で見たらね、ヤマトからのみなさんもたくさん居るから、小浜はどうなるだろうと思う人もいると思うんですけどもね、僕らに言わせたら、どうってことない、と。島は不動だと、そういうふうに私は思います。それなりのものが島にはあります。ただ懸念しているのは、島の古謡などの後継者がいない、むしろ、これが心配です。やっぱり米づくりなんですよ。すると、自ずからわかりますよ。私のねらいはそこですよ。

―ありがとうございました。

(情報やいま2007年5月号より)

 


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