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トップ  >  はいの晄の八重山  >  島に生きる。 ―池田米蔵さん、池田卓さん―|はいの晄の八重山

島に生きる。 ―池田米蔵さん、池田卓さん―

文・はいの 晄
西表島コラムちゃんぷる〜「池田米蔵さん、池田卓さん」

船浮・父と息子の物語

 一途に何かをやり続けている人を素晴らしいと思う。専門馬鹿という批判的な言葉もあるが、歳を経てくると、それでなぜ悪い、と思うようになる。開き直りではない。なにしろ人生は短い。…「神は細部に宿る」と言ったのは誰だったか忘れたが、では、細部に宿る神を見ることのできる人は誰か。一途に何かをやり続けている人だと思うのだ。八重山の島々で一生懸命生きている人たちを紹介する。

 荒波の中、池田米蔵さんの船に乗ってウダラ、崎山に行った。猪猟を見せてもらうためだ。これまで経験したことのない大波。降りかかる波をビニールシートで避け、船底に尻を打ちつけながら不安でしかたなかった。大波に浚われてあの大岩に船もろとも木っ端微塵になったら…。しかし、帰りの荒波にそれほど恐怖を感じなかったのは、米蔵さんに対する信頼感というか、絆のようなものが生じていたからだ。
 米蔵さんと卓さんの父と息子の絆。それもこんなふうにしてつくられていったのだろうか―
 この3月16日にリリースされるという卓さんの新しいアルバム『心色』をひとあし早く手に入れて聴いた。卓さんにとってはメジャーデビュー作品。全12曲。
 これまでのメッセージのつよい歌に加えて、島の自然や暮らしや人の心の機微を細やかに表現していて、それこそいくつもの「心色」を見せてくれている。
 聴きながら、猪猟に行ったときの米蔵さんの姿を思い出した。木漏れ日の山の中、木の間を縫うように素早く歩いていたかと思うと、じっと立ち止まって山の音に耳をすます。船を漕ぎ出す先の空を見上げて風と会話をしている米蔵さん…。
 卓さんの歌に米蔵さんを想ったのは、卓さんが多く故郷の船浮や家族を歌っているということもあるのだが、独自の歌の世界を広げつつある卓さんを、広い山の中を歩き回る米蔵さんに重ねてイメージしたからだ。ふたりとも、厳しい世界に生きている。
 もうひとつ。勝手に、船浮に帰って何年か後の卓さんを想像したら、それが米蔵さんの姿にダブって見えたのだ。

池田米蔵さんの話

西表島コラムちゃんぷる〜「池田米蔵さん、池田卓さん」
桟橋の船揚場。カンテラの灯りで猪の腸を洗う池田米蔵さん。この日仕留めた猪は4頭。山や海を歩き回る米蔵さんは、船浮海運の社長などいくつもの仕事を持ち、電気工事、水道工事、大工…と何でもこなす。また、村の伝統行事を担う中心人物でもある。
 僕らのころは竹馬に乗ったり、ツグミを落とし罠にかけて捕って焼いて食べたり、セマルハコガメを食べたり(喘息の薬って)、ウナギを食べたり、それが僕たちの遊びなのよ。
 台風で船が入ってくるさ。避難して。この船が格好良かったら、丸太を切って、船を作るわけさ。ブリッジを勝手に想像して作って、そういうことがそのままこっちの遊びなのよ。
 大きくなったら重機の運転手になりたいなあと思っていた。それで、中学校を卒業して「なんでこんな所に自分だけ居ないといかんかあ」と思っていたから、しばらくして、沖縄の青年開発隊に入った。そこでは重機とか船とか5種類くらいの免許が取れるからね。
 建設会社に入ってさ、大阪万博に行かされた。あそこで重機の運転手で働いて、現場の工事だけでなく地下鉄工事にも行ったさ。都会に出て初めて、都会は僕の住むところでないなあとわかったわけよ。落ち着かないわけよ。仕事もして、人つきあいもして、気候も体験して、食べ物も…、やっぱり都会での生活は自分に向いていないなあとわかったからここに帰ってきた。石垣も含めて外に出ていたのは5年間くらいだったかな。
 今、ウチの子どもたちが帰ってきても、もう都会の生活に慣れているからね、寂しかったら都会にいけばいいさって。僕が実際そうだったんですよ。いちばん末っ子だから、親父は、言うまんまに、船買ってくれといったら船買ってくれるし、バイク買ってくれといったら買ってくれるし、ところが、寂しかったなあ。シマには(青年は)僕ひとりしかいないのに…。今になって親父の苦労もわかるさね。僕をここに居らすために金かけて…。あの時はわがままだったさ。
 あのころ、サバ崎の灯台のところ、半島を借りてね、牧場もやっていたんですよ。牛を養って、米もパインもつくって…、浦内橋がないころさ、船でパインを積んで、浦内まで一日がかりで運んでいくわけさ。前の日にパインを積んで、翌朝出発して、昼あと帰ってくる
 台風の時には、漁船が避難してくるから、パインと魚を交換して、魚を白浜に売りに行くの。また、網取部落は年寄りばかりさ。水牛で浜まで米俵を引っ張ってきたら、俵を自分が担いで船に乗せて、白浜の定期船まで運んで行った。こんな暑いときに、運んでさ。網取の吉岡さんという人とふたりさ、僕は20代、あっちは30代。米、担いでさ。
 猪獲り、魚捕り、薪拾い、山菜採りなんかよ、あの頃は冷蔵庫もないでしょ、みんな自分なんかで作ってよ。美味しいさ、煮しめが。筍と三枚肉のアチラサー(炒めたもの)よ、もう、やめられんよ。今でも、こういう料理はオードブルではとれないよ。
 ずっと昔は豊年祭も賑やかだったけど、僕らが青年のころには人が減って綱引きもなくなった。ある人がハブに咬まれて破傷風になってよ、石垣まで連れて行くまでポンポン船で3時間かかったさ。あの人、死ぬ間際さ。そんなこともあったし、電気は無いし水道は無いし、石垣の高校に通っている子どもに仕送りもしないといけんし、あの人は、シマ出て行ったさ。
 公民館長もやったけど、当時は生徒はウチの長女と長男の二人だけ。僕はPTA会長、先生は妻…、僕の家庭だけの学校さ。棒をうつ若いのは誰もいない。僕くらい。豊年祭も司のニンガイ(願い)だけ。子どもがいないと張り合いがないなあ。
 あれから井上さんの孫、琉球真珠の職員の子どもたちで賑やかになって祭りも復活したけど(「祭がよみがえった」とNHKが番組を作った)、棒を教えて…。それまでは人がいないから、休まざるをえなかった。
 ここにいると何でもできないといけないよね。自分も、親から、手真似見真似で習ってきたけど、家も全部自分で作ったのに。
 台風が教えるのよ。「こんなにしないと飛ばされるよ」って。今、山猫の写真撮っているけど、こんなしないと写真撮れないよ、風上にアンタがおったら臭いから風下に居なさい、と言わんばかりに、自然と、いろんなものにこういうふうにして教えられてきたさ。
 水道工事にしても電気工事にしても、何もかも自分で昔からやってきた。ブロックもタイルも積んだり、プラスチックの船の修理から何から。
 こんな体験をしてきて、卓がほんとにここに定着できるかなあと不安があるわけさ。基盤つくるまでが問題なわけさ。卓は中学までこっちで生活しているからね、もう僕が指示出せばそれなりのことはできると思うわけさ。だけど、やっぱり手真似足真似でしないといけないから、時間がかかることだからね。猪の獲り方とか魚の捕り方とか、海も広いけど、潮引いたら通れないところもあるしね…。
 僕は、今でも、明日鹿川に行くという前の晩は、子どもが遠足に行くときのような気持ちで、眠れない。大きい猪がかかっているんじゃないかとかさ。都会にときどき出るじゃない。都会の人は、猪なんか相手にして何が楽しいかというけど、僕らは、こっちの方が楽しいわけさ。

池田卓さんの話

西表島コラムちゃんぷる〜「池田米蔵さん、池田卓さん」
シチィ(節祭)の船漕ぎ儀礼に参加した池田卓さん。メジャーデビューを控えた新進のシンガーソングライター。みんなから「卓、持て」と促されて旗頭も持った。舞台に上がって歌も唄った。多忙な中、可能な限りふるさと船浮の行事に参加する。
 父の背中を見て育ってきました。いちばん最後になりたい人というか、最終的な目標ですね。船浮の住人として見れば、欠かせない人。昔からの船浮を知っているし、その変化を見てきたし、船浮の将来にとっていちばん重要な人じゃないですかね。
 野生児でもあるし、都会的な考えももっているし、祭は中心になってやっているし、むかしは豊年祭の力石を持てるのはお父さんと(大嶺)英松さんだけでしたよ。いや、まだまだかなわないですよ。毎日ロープで船を引っ張っている父にはかなわない。追い越すこと? お父さんが落ちるのを待つしかないね(笑)。それか、早いとこ帰ってきて同じような生活をするか。
 小学生のときはキャッチボールをしたり、猪獲りとか釣りにつれていってくれたり、中学生になったらシマの祭りに参加させたりとか、友だち代わりにもなってくれた。
 小学校の高学年になって、野球がやりたい、同級生がほしい、ライバルが欲しいとか女の子がいるところで授業したいとか、そういうわがままを言ったとき、我慢しろ、とはひとことも言わなかったですね。じゃあ何がしたいのかと聞いて、今しかできないことがあるはずよって感じで、子どものやりたい環境をつくってくれた。お父さんも同級生がいないひとりぼっちの生徒だったって他人から聞いたのはずっとあとだった。
 口では叱っても絶対に手は挙げないんです。お母さんもそうですけど、僕はいまだに両親に叩かれたことがない。教え方が上手だなと今になって思う。例えば、こんなことをしたらお父さんは寂しいな、お母さんは悲しいな、みたいな。小さい子どもは親に嫌われるようなことはしないじゃないですか。いちばん好かれたいから。
 中学生になったら一人前の男として見てくれた。もうちゃんと自分で判断ができるはずだ、これだけの力があるんだから自分で考えてやりなさい、と。子どもとしては嬉しい。何やってもいいけど、他人に迷惑はかけるなよ、と。
 父は自分というものをしっかりともっているからね。誰かに合わすわけでもない。どんな態度とられても合わせない。難しいけど、でも面倒見が良いというか、ついてくる人は絶対追っ払ったりしない。とことん。嫌うのは、例えば釣るだけ釣って食べもしない、お土産にもしないで帰る人。こっちでは釣りを楽しみながらちゃんと食べるんですよね。釣りも生活の一部。だから、筍だって山からあるだけ取ってくるんじゃなくて必要な分だけ分けてもらう。
 この時期この風が吹いて、この潮が当たれば、じゃあ釣りに行こう。そういう生活がいちばん素晴らしいと考えれば、その最たる人がお父さん。しかし、外から見ると憧れの生活に見えるけど、実際お父さんが教えることは、自然は厳しいよ、ということですよね。お父さんがやってる分には無理なく見えるけど、他人がやろうとすると大変なこと多いですよね。厳しさを併せ持ってお父さんがいる。
 チャーター便一本出して、ドラム缶積んで終わってそれから朝ご飯。忙しいねって聞いたら、いや、としか言わないですよね。何もかも苦労と思ってないですよね。やらされるんじゃなくて率先してやるから。何もかも当たり前と思っている。
 僕の取材で両親にインタビューがあったんです。この不便なところに住み続ける理由は何ですかって訊いたんです。故郷だから、と訊いた人は期待していたんだろうけど、親父とおふくろは口を揃えて、ここが世の中でいちばん便利なんだと。それくらい馴染んでいるし、ここが世界でいちばん便利で素敵なところと思って生活している。
 僕にとってシマは、正直言うと、まだ、両親のようにここがいちばん便利とは思わないんです。やっぱり不便。でも、小さい頃、シマの愛情を独り占めしたし、祭りの旗頭にしても、優先的に「卓、持て」って言ってくれるじゃないですか。僕は米蔵と敏子の子どもじゃないんですよね。船浮の子どもなんですよ。その期待にも応えたい。
 親父はやっぱ僕が帰ってきて一緒にやってくれたら嬉しいと思っているかもしれないけど、帰ってこいとはひとことも言わないですよ。都会でしか学べないこともあるんだよ、と。出会いであったり、つきあい方であったり、ここに無くて都会にあるものを学べと。
 ライブなどでも言うんです。最終的な目標は島に帰って、村に子どもたちの笑い声が聞こえてくるような、そんな島にしたいと。子どもたちが増えるには若い人たちが必要だし、若い人たちが住むためにはそれなりの仕事が必要だし、しかしお金儲けだけを考えずに、島のことを考えて島を守れるように、と思っています。もちろん、ここに帰ってきても歌は唄いますよ。
 親父の弱点? 雷ですね。どんなに時化ていても海に出るんだけど、雷が鳴ったらすぐ帰ってくる(笑)。

自然の愛情が父親を通して息子に

西表島コラムちゃんぷる〜「池田米蔵さん、池田卓さん」
夏に行われる豊年祭。村の守り神・船浮御嶽でおこなわれる。棒術、獅子舞、舞踊などが奉納され、丸くて重い石を何度持ち上げることができるかを競う力だめし、綱引きなどがおこなわれる。写真は、行事が滞りなく終わって司が退場するところ。
 「この村のことをいちばんよく知っているのは井上のばあちゃんと米蔵さん」と誰かが言っていたが、米蔵さんは船浮にとってなくてはならない人物である。しかも村の行事のときだけではなく、電気工事、水道工事、機械の修理…、何でもできるうえに、郵便・電報配達、テレビ受信料集金、密航監視員、海上保安部の警備救難・灯台監視、消防団、営林署関係の仕事…、といくつもの仕事をほぼ同時にこなしてきた。
 そのスーパーマンぶりを、井上キクエさんは「元気。力持ち。いっときもじっとしていない。朝は夜も明けないうちから海や山に出ているし、夜は遅いし、毎日どっかに動いているよ。珍しくてならんさ」と言い、甥の池田克史さんは「オールマイティー。シマではそれがいちばん理想なんですよね。海や山の知識も経験も豊富。島で生きて行くには見習わなければならないお手本」と言う。
 小さい頃からちょっと変わった子どもであったようだ。兄の池田豊吉さんは言う。
 「じっとしない子でね、小学校の頃から朝早く起きて、魚やイカを釣ってきて食卓に間に合わすという、何かこう、我々にできないことを、子どもながらにやっていたという印象がある。今でもそう。いい加減なことが嫌いで一本気。ちょっと筋の通らないことやったらね、どんな偉い人だろうが、全然とりあわない。船も、時間に遅れたら、待ってくれないかとお願いしてもダメ」
 その強い性格は、どこからきたのだろう。生来のものもあるのだろうが、山や海での「狩猟」によって育まれた部分もあるのではないだろうか。たとえば、厳しい自然と対峙するときにたびたび一瞬の決断力を求められるとすれば、そこは他人の入る余地などなく、小さい頃からそれに馴染んできて今の米蔵さんの性格があると考えられないだろうか。
 また、米蔵さんの奥さんの敏子さんに言わせると、「口は悪いけど、みんなに思いは寄せてます。でも、言葉選びができないのね。船浮の人はそんな人が多い。みんな兄弟や親戚みたいな感じで、柔らかい言葉をつかわなくても、プンプンって言ったら、それが通じて大きくなったのかも知れないし…」ということらしい。
 息子の卓さんは、5年前にデビュー作「島の人よ」がブレークし、今やラジオやテレビで活躍する新進のシンガーソングライター。主に、彼の原点であるふるさと船浮への想いや、島の心をテーマに歌っている。
 小さい頃から野球が好きで、そのために野球チームのある船浦中学校に通い、沖縄水産高校野球部でピッチャーとなった。当時の様子を母親の敏子さんは次のように語る。
 ―卓の書き置きが「お願いだから僕を船浦中に出して下さい」。船浦中には2年生の新人戦のときに1か月だけ留学して船浮に戻って、3年生の新人戦のときにまた行って、中体連が終わったら帰ってこようということだったけど、もう、そのまま卒業まで。
 そのあと水産にいって、しかしこれまで上下の関係ってなかったでしょ、もう、何10通手紙書いたか。最初は頑張れと書いたけど、我慢する必要ないよ、音楽の道に進んでもいいよって。「電話もできない」というのが、1か月くらいしたら「お母さん、大丈夫」、もうちょっとしたら、「こんなにしてるから水産高校の野球が強いかもしれない」って。だんだん厳しさの中に慣れてきて…。「ちばりよー」という歌はお母さんが自分に送ってくれた手紙「辛いときには立ち止まれ、振り返れ」を参考にして作ったとラジオで言っていたけど、私は、頑張れというのは言わなかった―
 大学に進学して、しかし野球に挫折する。それからデビューまでの何年間か、その期間が彼にとってもっとも重要な時間であったのだと思う。おそらく彼はふるさとを想いつづけたのではないだろうか。父のこと母のこと、村人たちのこと、山のこと海のこと…。そして、「島の人よ」にたどり着いた。
西表島コラムちゃんぷる〜「池田米蔵さん、池田卓さん」
大嶺英松さん・英樹くん父子。英樹くんはミュージシャンを目ざして、友人とバンドを組み、週に一度は石垣の三線研究所に通う。英松さんは「好きなら最後まであきらめずにやって欲しい。場所はどこでもいい。自分の好きなことをやらんとね。でも故郷を忘れないで欲しい」と言う。
 今、卓さんと同じ道をたどろうとしている中学生がいる。大嶺英樹くん。毎日、船浮から船浦中学校まで通っている。友人とバンドを組み、野球も頑張っている。
 「ぜったいに音楽をしたい。バンドでやるのか三線でやるのか、どんなジャンルのアーティストになるかは決めていないけど、いま考えているのは、とりあえず沖縄本島の普通高校を出て、友だちをつくって、そこで目標を定めたい」
 船浮・白浜間の朝夕の送り迎えに父親の英松さんが船を出す。「朝は早いし、続くかなあと心配していたけど、あと1年ちょっと。ゴールが見えてきたかなあ。しかし海は怖いですよ。少々の無理はするけど、ダメはダメ、ギリギリがどこか見極めないと」
 英樹くんは言う。「山に連れて行って猪の罠の仕組みを教えてくれたり、祭りで旗頭を持ったときのお父さんはかっこいいなあと思う。あと、面白い」
 ここにも同じように、父と息子の絆がある。自然と溢れ出る愛情を感じる。
 去年の節祭。村の人たちの温かい笑顔に迎えられて、卓さんも英樹くんも舞台に上がった。カマドマ広場の樹木の中の小さな舞台。50人足らずの村人。―私の意識は上昇し、船浮村を俯瞰する。群青色の海に囲まれた岬の、深い緑の山々の谷あいに肩を寄せ合うような集落。その広場に集まったひとつまみの人たち。まわりの海や山から立ちのぼる蒸気のような「自然の愛情」が、光のシャワーとなって人々に降り注いでいる。
 さらに想像する。その寡黙な自然の愛情が、父親を通して溢れるほど息子にいっぱい注がれていく―


(情報やいま2005年3月号より)

 


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