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トップ  >  はいの晄の八重山  >  島を出た八重山人 .ビラヤスヲさん|はいの晄の八重山

島を出た八重山人 .ビラヤスヲさん

写真・文 はいの 晄
造形作家カビラヤスヲさん(52)に興味を持った理由がふたつある。
ひとつは、最西端の与那国島に生まれ石垣島の八重山高校を卒業して島を出た彼が、よりによってどうしてあの寒い北海道の、しかも宗谷岬にほど近い羽幌という極北の地(私にはそう思える)に住みついたのか、その暮らしぶりはどうなのか。もうひとつ。どうして彼は「琉球アイヌ」と呼ばれるに至ったのか、ということだ。

島を出た八重山人 .ビラヤスヲさん

八重山の歌は、与那国の海のうねりなんだよ

北海道だ、どうせ来るなら冬にした方がいいだろうというカビラさんのアドバイスにしたがって、2月19日から21日まで彼を訪ねていろいろと話を聞いた。3日間ほんとに親切にしてもらった。私の、ときには不躾けな質問に嫌な顔をせずうーんと唸ってそれでも応じてくれた。
「生活を一緒にしていく人としては困ることもいっぱいあるけど、素朴で懐が深く、古い沖縄人のいいところを持っている人。他人をホッとさせるところがあって、屈託がないからあまり裏を考えなくてすむのね」というのが奥さんのカビラ評。
この3日間をざっと振り返ると、1日目、午後8時すぎに旭川空港に私を迎えると、カビラさんは、久しぶりだという川村アイヌ民族記念館の川村兼一館長と杉村フサさんを訪ねてお土産を渡し、そして私をアーリータイムズというカフェバーに連れて行き遅くまで酒を飲んだ。その店は、カビラさんが初めて北海道に旅行で来た1977年に入り浸っていた空想旅行館という喫茶店の3代目かで、今でも60年代、70年代の音楽を愛する人たちが集まるところだ。この日ホテル泊。
2日目。再び川村兼一さんと杉村フサさんを訪ねしばし旧交を温め、それから車で北上して約4時間で人口1万弱の羽幌に到着。カビラさんの住宅は公務員宿舎。奥さんのかよ子さんが道立羽幌病院の助産婦さんなので入居している。奥さんに話を聞き、宿舎から10分ばかりのカビラさんのアトリエ「衍」へ。ここは朝日小学校という廃校になった学校の校舎なのでかなり広い。5つくらいの教室に作品や材木が所狭しと並んでいる。以前は教員宿舎だったのだろうか、カビラさんが寝泊まりしている小屋がある。夜はここで歓迎会を開いてもらい、海の幸や鹿肉に舌鼓をうった。小屋泊。
アトリエ「衍」
雪に覆われたカビラさんのアトリエ「衍」。カビラさんは広い廃校跡をアトリエにして創作活動を行っている(北海道羽幌市)
3日目。この日奇しくもカビラさんの誕生日。雪に半分埋もれた裏の雑木林をふたりで歩いた。昼すぎ、カビラさんの家族に見送られて羽幌バスターミナルから札幌行きのバスに乗った。
今こうしてカビラさんを訪ねた3日間を振り返って、まず最初に浮かび上がってくるのは、あの最後の日のこと。
あの日の朝、私が目を覚ましたときにはもうカビラさんはアトリエに出ていた。顔を洗ってアトリエに行くと、彼は泣いていたようだった。顔がくしゃくしゃだった。酒を飲んでいた。
「昨日の三線よかったあ。気持ちが良いよ。八重山の歌は波頭がないな。波頭はいらないの。波頭は自分を見せたいって姿なんだわ。うねればいいの、ゆったりと。八重山の歌は、八重山の、与那国のうねりなんだよ僕にとっては…」
何時頃に起きたのだろう。昨日の夜、ちびちびやりながら一緒に三線を弾いて八重山の民謡を歌ったが、――島のことを思ってあまり眠れなかったのだろうか。
「淋しくてさあ……。三線弾いたら共有できる。つながっている。いつも沖縄が見えるんだもの……」声が震える。
アトリエの壁には八重山民謡の工工四のコピーが何枚も貼られている。小屋の彼の机(彼自身がつくったのだろう大木をそのまま輪切りにしたような机)にはCDやテープが散乱し、山里勇吉「道うた遊びうた」大島保克「北風南風」高田渡・大工哲弘・大島保克「詩人山之口貘をうたう」他に夏川りみ、宮良康正、西泊茂昌、元ちとせ等の名前が見える。
机の上にはまた、読みかけらしい「アイヌ神謡集」「徒然草」「方丈記」「古琉球」の4冊の本もあった。(覗いてしまいました。すみません)
「島に帰ったらさ、三線ばかりやって、サバニ作って、ほかに何もやらないかもな。釣りしてさ、陸に上がったら、ゴーヤー元気かなあと眺めて触ってさ、ガーッと寝る
でしょうねえ。そして、いつか、ゆったりと死んでいく、と。十分じゃないかなあ……」


今日は天気がいいからと、ふらっとどこかに出かけて…

カビラさんの家族
カビラさんの家族。左からカビラさん、洲くん、川平かよ子さん
本名・川平康雄。1952年(昭和27)2月21日生まれ、52歳。
与那国島に生まれ、小学5年の頃に石垣島に家族で移住。両親は多良間島の生まれ。石垣小学校、石垣中学校、八重山高校を卒業して東京に出る。写真関係の会社に就職するも1年後、復帰を機に沖縄に戻り首里に住む。カメラを片手に島々をまわり「感じるまま」に写真を撮り平和通りなどで個展を開く。22歳のとき八重山高校の1年後輩名幸かよ子と結婚。当時から放浪癖あり。1977年10月「雪が見たいなあ、紅葉が見たいなあ」とヒッチハイクで津軽から北海道へ。駅で寝泊まりしながら各地の紅葉に感動し、念願の雪を見て結局2か月半北海道に滞在する。翌年、まとまったお金ができたので奥さんを連れて「半年くらい遊んでくるか」と北海道は旭川へ。そのまま住みつくことになった。
旭川ではカビラさんは職を転々とする。アイヌの民芸品を作る所にもいたが、「アイヌを食い物にしているようなその姿勢」が許せなくて経営者と喧嘩して半年でやめた。
「その日つくった分を目の前でみんなたたき割ってな」
いちばん長く続いたのは測量の仕事だった。
「あのころ食い物に困っていたからな。食糧の会社かと思って行ったら測量の会社だった。面白くて面白くて。植物が八重山とは違うだろ。木の名前を憶えるのにわくわくした。山を越えたり川を渡ったり……」
冬になると測量の仕事はない。夏に測量の仕事をし、冬の間は絵を描いたり木を彫ったりした。6年ほど続いた。写真とは「手を切った」。
かよ子さんは言う。
「私は川平とは異質。私にはキチンとした生活が良かったような…。でもほんとうは自給自足に近いような素朴な形の生活がしたかったから、川平はいちばん適当な人だった」
パートで働いたりしたが、30歳ちかくなって、「どうも川平の稼ぎではアテにならない」と思うようになる。弁当を作って持たせても、今日は天気がいいから、とふらっとどこかに出かけて仕事に行かない。図書館でばったり会って、「ヤバイって感じで逃げていく」カビラさんを目撃したりする。
「結局この人に経済的なものを期待するのは無理。私の思っている経済的な最低レベルと、川平が思っているレベルが違う。私が苦しいと思っているとき、川平はまだ余力があるもの。苦しい方が働かなきゃね」
彼女は決心して、岩見沢の看護学校に通う。働きながら准看を2年。しかしどうしても正看になりたい。病院勤務の「お礼奉公」を1年で許してもらって網走看護学校へ。ここでは学生生活だけ。准看のように働きながらというわけにはいかなかった。卒業して紋別の病院に就職するが、そこでも一念発起、助産婦の資格をとるために学校に通った。
「いずれも主席で卒業したはずだよ」とカビラさんは言った。
「高校卒業したての女の子たちとはモチベーションがちがうもの」とかよ子さんは言った。別々のところで。
網走看護学校の2年間と助産婦の1年間のおよそ3年間はカビラさんが東京に出稼ぎに行き、仕送りをしてかよ子さんを支えた。
「東京では制作のことは考えないようにした。手を出すと仕事どころではなくなるからな」

カビラさん
【写真左】雪が木の枝に引っかかって丸く浮いているのをカビラさんは「闇をつかむ手」と表現した。雪に閉ざされた北海道には白い闇があるのだ
【写真右】カムイノミ(アイヌの神への祈り)を行うカビラさん。「イナウ」を立て、火をたき、神酒を飲み、神口を唱える

おまえどこのアイヌだ? 琉球のアイヌだ

あの頃沖縄に戻ろうという気持ちはひとつもなかった、とカビラさんは言う。「アイヌの友だちもいっぱいできて楽しかったさあ」
アイヌの人たちとつきあうようになったきっかけの話が面白い。
カビラさんと杉村フサさん
杉村フサさんを訪ねたカビラさん。背後の遺影はフサさんの夫の満さん。アイヌのエカシ(長老)として仲間から尊敬されていた
「スーパーに行ったら、石山さんというアイヌの人がアイヌ語で喋ってきたわけだ。意味がわからんからこっちは沖縄方言で喋った。それで、面白いアイヌがいる、ということになって、石山さんの奥さんが僕を(杉村)フサさんのところに連れて行った。それで(川村)兼ちゃんたちとも仲良くなっていった」
こんな話もある。砂澤ビッキというアイヌの造形作家がいた。カビラさんと同じように木を素材に作品をつくった。
「音威子府のビッキのアトリエに初めて会いに行った。作品を見て体が疼いたんだな。おう、おまえどこのアイヌだ? というから、琉球のアイヌだと答えたら、それで会うたんびにこの人がその話をするんだわ。それで有名な話になってね。ビッキの父親と僕がそっくりだと気に入られてね、可愛がってもらった。天才的な人でね。57で亡くなった」
北大中川研究林庁舎前の3本のトーテムポール「思考の鳥」の制作などを手伝った。
アイヌの人たちと親しくなり、墓標をつくったり葬式にでたり、儀式に参加したりするようになった。ムックリ(口琴)を演奏してくれと頼まれることも多くなった。
「(川村アイヌ民族記念館の)チセで作品展をやったのは僕だけじゃないかな。チセというのはヤーグァー(小屋)のことなんだけど、アイヌにとっては儀式をしたり結婚式を挙げたりする大事な空間なんだわ」
また、神への伝言を伝えたりするときに使うイナウ(木幣)をつくる道具を川村さんからもらうまでになった。アイヌの大事な祭具であるイナウをつくってもいいという許可をもらったのだとカビラさんは思っている。イナウを作るところを見せてもらったが、サッサッとじつに気持ちいいほど手際よく数分であのチリチリのイナウができあがった。呼吸なんだよ、と言う。
「彼らと飲んでると沖縄で飲んでるような気になるんだよなあ。しかし、純粋のアイヌは少なくなるし…。こんなこともあった。友だちになったアイヌの人がいて、おいカビラ、と。君はアイヌ人じゃないから髭を伸ばせるんだ、と。翌朝、僕は髭を剃って彼のところに行ったんだよ。そしたら、よけいアイヌ人に見えるからやめてくれ、と。昔のアイヌ人は髭を伸ばしていたけど、差別などがあって最近は髭を生やさない。だからエカシ(長老)やフチ(婆さま)たちは僕を見るとほっとするんだろうな。昔、アイヌはおまえみたいだった、と言うんだ。自分もフサさんのところに行くとほっとする。……沖縄もほっとするけど、親戚とか、煩いところがあるなあ。髭? 剃るの面倒くさくてな」
1992年(平成4)、かよ子さんがスカウトされるような形で羽幌町の道立羽幌病院に助産婦として赴任することになって、ふたりは旭川から羽幌に引っ越した。風の強いところで、旭川より寒さが厳しい。
カビラさんは旭川に出る機会が少なくなった。アイヌの仲間たちとも何かがないとなかなか会えない。
やがて子どもが生まれた。男の子。洲と名付けた。「大きな川に、やがて洲ができ、渡り鳥たちが休んでいく、そういう人間になってほしいなあと思って…」カビラさんは言う。
かよ子さんは洲くんを八重山病院で生んだ。
「私、川平といっしょになるのを大反対されたから、ほとんど親と絶縁状態だった。勘当が解けたのは私が助産婦になってからだから、12年前かな」
「親の勘当が解けて安心したんじゃないかなあ。そう思うよ」とカビラさん。
かよ子さんは「若い頃は沖縄って嫌だった。何だかどろどろしてて、だらしなくて、どうせ親とも会えないし、北海道、ロマンがあっていいなあって思った。でも、歳をとるにしたがって沖縄の嫌悪していた部分を逆に良いと思うようになってきた。だんだんゴーヤーの味がわかってくるように。自分の中に脈々と沖縄の血が流れているんだと思う。でも、なかなか簡単には帰れない…」と言う。
子どもができて、ふたりの生活のスタイルが変わった。洲くんの面倒を父親のカビラさんが見なくてはならなくなった。助産婦のかよ子さんはいつ呼び出されるかわからない待機状態が多い。カビラさんは当然アトリエに泊まり込むことも少なくなった。

カビラさん
【写真左】川村アイヌ民族記念館にはカビラさんの作品が飾られてる。
【写真右】カビラさんのアトリエの壁には八重山民謡工工四のコピーが貼り付けられ、アトリエにはいつも音楽が流れている。

おれさまは いたみしらずだ わっはっは

さて、3日目の朝の場面に戻る。

私たちはアトリエを出て裏山の雑木林を歩いた。カビラさんに長靴と毛糸の帽子と軍手を貸してもらった。寒いけれども雪の上をザクザクと歩くのは嬉しい。1メートル50センチくらい積もっているんじゃないか、とカビラさんは言った。雪がなければそれくらいの高さの中空を歩いているのだと想像すると楽しくなった。
カビラさんはさすがに草木の名前をよく知っていた。木の性質などを話しながら歩いた。
サビタ、トドマツ、シコロ、クマザサ、ヤマハンノキ、マカバ、イタヤカエデ、ツルウメモドキ、マタビ、ツル、イタドリ、ミズキ、ヤナギ、クルミ、エゾヤマザクラ……
また、歩きながらときどき呟くようにいろんなことを言った。それはほとんど私には脈略のないものに聞こえた。しかし以下に記しておこうと思う。理由のひとつは彼の作品やそのテーマに言及できなかった(私にその能力がなかった)罪滅ぼしである。ピンとくる人があるかもしれない。もうひとつは、ここに彼の一生懸命に生きている様子や、対象に対する真摯な態度や優しさがよく現れていると思うからである。
・ 自然のはじける音を聞きたい。待つよ。人は待つということを忘れているよ。
・ 木が人を選ぶ。5年でも10年でも待つ。
・ アイヌとは生き方なんだよ。
・ 待つってことは空間。闇っていうかさ。
・ 道なんだ。タオなんだよ。雪が降ると自分の行きたいところへ行けるよ。
・ 闇を掴みたいと思うよ俺は。闇って、引っかかって欲しい。作品に固定したい。
・ 時間って長いものなんだよ。
・ 木は天から落ちてくる川なんだよ。天と地をつなぐ水脈なんだわ。
・ 化け物だぞ。自分の周りに生きているモノというのは。怖い存在だよ。甘えているよ、自然に。
アトリエの裏で、カムイノミ(アイヌの神に捧げる祈り)をやってくれた。私の旅の安全を神に祈るというのである。ふさふさのイナウを1本、刀のようなイナウ2本を立て、火を燃やし、神酒を捧げて、飲んだ。カビラさんが何やら神口を唱えた。
奥さんと洲くんがやってきた。お父さんのアトリエは洲くんの秘密基地なのだそうだ。宿舎の柱に掛けられていた「おれさまは いたみしらずだ わっはっは」という洲くんの書いた短冊は、秘密基地で怪我にも気づかないほど遊んだときのものだとか。
カビラさんはこの日が自分の誕生日であることを忘れていたようだ。洲くんから「腰もみシーズン券」をもらって、くしゃくしゃの顔を隠すようだった。
札幌で1泊し、翌日の昼すぎ新千歳空港から羽田に飛んだ。雪が降って欠航がつづくなか、2時間遅れではあったがどうにか離陸できたのはカビラさんのカムイノミのおかげかもしれなかった。
雪が降っていた。離陸直後はうっすらと下界の様子が見えたが、上昇すると窓の外は白くて何も見えなくなった。白い闇――血の気がスッと引くようであった。雑木林を歩いたとき、雪が木の枝にひっかかって丸く残っている様子を、カビラさんが「闇をつかむ手」と言ったのを思い出したからだ。
雪に閉ざされた世界には白い闇があるのだ

島を出た八重山人 .ビラヤスヲさん

(情報やいま2004年4月号より)

 


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