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国境線消え・・・

文=米城 惠 (与那国町史編纂委員)

むかし八重山 国境線消え・・・

国境線消え、にぎわう与那国の海。 大 マークの大阪商船も湖北丸、湖南丸を投入

 与那国の海は、長い帆船の時代を経て、大正中期、すなわち一九二〇年代から個人経営の発動機船の活躍の場となった。
 おもな船名をあげると第一、第二漁音丸(田村春馬・所有)、帆安丸(村営船)、金栄丸(蓋盛常介・所有)日向丸(発田貞彦・所有)などである。いずれも三〇トンクラスの小型船であった。台湾が日本の領有となって、三、四十年が経っていた。
 そこへ、一九三一(昭和六)年八月七日、煙突に 大 のマークをつけた大阪商船の湖北丸が、ついでおよそ一ヶ月後の九月十三日、湖南丸が就航した。
 湖北丸は一九一五(大正四)年の建造で、フィリピン航路の船だったのを改善したもので総トン数二六一〇、速力一二ノット。竣工から一六年も経ってはいたが、なにせ、これまでの先島航路の船舶とは大きさが格段に違う。八月八日付、先島朝日は「優秀船湖北丸昨日朝、石垣港に勇姿を現はす」と報じた。
 これに対し、湖南丸は十三日が処女航海という新造船で、二七〇〇トンと湖北丸よりやや大きかった。
 それに、やはり大型の嘉義丸も加わって大阪、神戸、鹿児島、奄美大島、那覇、宮古、八重山、基隆間を結んで往復し、与那国には二、四、六、八、一〇、一二月と偶数の月に一回だけ寄港した。沖での停泊である。これだけの規模の船が出入りできるほど、港は整備されていなかった。
 池間苗さん(九〇)は一九三四(昭和九)年二月、第一高等女学校を受験するため、日向丸で与那国を出航、西表白浜から湖南丸に乗り継いで石垣に渡り、会場の登野城小学校で試験を受けた。だが、この船の燃料は石炭だった。その積み込む音が夜通しうるさく、停泊した白浜では一晩中眠れなかったという。また、入波平節さん(八七)は石垣から乗船し、強風下の与那国の比川沖で「いやだ、いやだ」というのをかまわず、子豚のように縄でしばって吊り下げられ、高波に踊り上がる眼下のくり舟に乗り移らされた。
 こんなふうだから、乗客は、風波が強いときは与那国で下船できず、そのまま船の次の寄港地、たとえば台湾にまで運ばれることもあったのである。
 台湾航路は一八九六(明治二七)年以来の、大阪商船の独占航路であった.そのため先島─基隆間の運賃が高いなどと批判もあったが、湖南丸がドック入りすると、たちまち代船就航の要求が起こるほど、需要の多い航路でもあった。


 


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