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トップ  >  八重山イベント特集  >  八重山の豊年祭 | 八重山イベント特集

八重山イベント特集「八重山の豊年祭」

豊年祭とプーリィ


 豊年祭---。沖縄大百科事典によると「豊年祭という呼び方は本来沖縄にはなく、村芝居という語とともに明治のころマスコミ・教育界を通して入ってきた用語」だという。「五穀豊穣を神に感謝する祈願祭」であり、種子取祭や結願祭も含めて豊年祭としている。
 が、八重山諸島では、稲・粟などの収穫儀礼をプーリィ、プーリン、プイ、ウガンフトゥティ(与那国)などと呼び、通常この行事のことを豊年祭といって種子取祭や結願祭などと区別してつかっている場合が多い。
 今年の豊年の感謝、そしてクナツユー(来夏世)エンヌユー(来年世)の豊穣を祈願する収穫儀礼のプーリィ。ほとんどが農民であった人頭税時代のむかしから村をあげておこなわれてきた。村にとっては最大の行事で、たとえば大浜村では、プーリキン(豊年祭の着物)と称して家族全員に夏の着物を新調する風習があった(『大浜農村生活誌』)という。しかし農業従事者、とくに稲作農家が少なくなっている現在、本来の意図は失われつつある。
 ところが近年、豊年祭に精神的よりどころを求め、自己のアイデンティティーとして捉える人が増えてきている。また、電飾などをつかって現代風に華やかにしていたものを松明を使う昔のスタイルに戻したり、むかしながらの着物を着るようにしている地域が増える傾向もみえる。また、子どもたちへ継承すべき文化として行事に参加する小中学校も増えてきている。
 ひたすら便利さを追求してきた時代から価値観が大きく変わろうとしている現在、改めて祭祀儀礼、年中行事のもつ意味を考える時期にあるのかもしれない。

稲作儀礼とプーリィ


竹富島の種子取祭
 八重山の年中行事の多くが稲と重要な関係にある。人頭税時代の主たる貢納物は米であったし、主食となり、酒造りなどにも用いられてきた。したがって米づくりはとても大事なことであった。ゆえに、稲がつつがなく育ち無事収穫できるよう時季時季に神や自然への祈願を真剣におこなってきたのである。主な行事をあげる。
○タニドゥリィ(種子取) 
 旧暦10月に行う播種儀礼。蒔いた種子が発芽してあおあおと茂り、刈り入れ時には豊かな穂をつけて稔って欲しいという願いをこめておこなう。苗代田に種まきを終えると村人が集まり、稲のすこやかな生育と稔りを祈って「稲が種子アヨウ」をうたう。精進的な要素が強い。また、カタバル馬(競馬)、練り行列(平得)、豊作予祝の歌舞音曲(竹富)などを行うところもある。
○フサバムヌン(草葉物忌)、プーヌムヌン(穂の物忌) 
 フサバムヌンは植えた稲が繁茂する旧暦3月頃、プーヌムヌンは稲穂が出始めるころ行う物忌精進。虫がつかないように祈願するもので、以前は村人は浜に下り一日を過ごした。
○シィクマ 
 初穂儀礼。刈り取った初穂を神や祖霊に供え、収穫終了までの天候祈願などをする。現在多くの村で簡略化されているが、川平村、西表祖納村、干立村で顕著に残っている。シィクマのあと、プーリィをおこなう。

ピュール(日取り)

 プーリィの日取りはツカサ(神司)を中心に地域の公民館長など役者たちで決められる。旧暦6月の壬、癸のミズの日を選ぶ場合が多いが、白保のように甲、乙の日におこなうところ、また黒島のように郷友会などの出身者が参加しやすい日を選ぶところもある。登野城、大川、石垣、新川村の合同でおこなわれる四カ字の豊年祭の日取りは新川村が決める。

オンプーリィとムラプーリィ


鳩間島の豊年祭
 プーリィは多くは2日間(3日間、それ以上おこなう村もある)おこなわれる。1日目をフーバナアギ(穂花上げ)といい、今年の収穫物への感謝儀礼。村の拝所である御嶽でおこなうことからオン(御嶽)プーリィの別名がある。
2日目はエンヌユーニガイ(来年の世願い)またはクナツユーヌニガイ(来夏世の願い)といい、これから先1年の予祝儀礼である。来年の豊作を祈願する意味から、力いっぱい汗を流してはなやかに奉納芸能をおこなう。旗頭、太鼓、巻踊、綱引など、村をあげておこなうことからムラ(村)プーリィと呼ばれる。
 また御嶽のない村、歴史の浅い村や戦後の開拓部落など新興の村では、簡素化した形で村人の親交を深め共同体の結束を目的におこなうところが多い。
 第1日目の御嶽での感謝儀礼の形は八重山全域にわたりほとんど変わらないが、第2日の予祝祈願は地域により大きな差異がある。
石垣博孝氏は次の3つの型に分類している。


天川御嶽でのミシャグパーシィ
1.旗頭、太鼓、練り行列、巻き踊りの奉納をおこない大綱引きをする。(四ヶ村、平得、真栄里、大浜、白保、西表祖納、干立、鳩間、与那国など)
2.豊年をもたらす世持神(アカマタ、クロマタ)が出現する(古見、小浜、新城上地、宮良)。ニロー神などとも呼ばれ、一定の年齢に達した村びと(または出身者)で構成された祭祀集団が行う。祭祀の内容等については当事者以外には知らされず、秘祭である。
3.船漕ぎ、道踊り、棒術などをおこなう。(黒島)

供え物


○カサヌパームチ
 多くの地域で、豊年祭になると農家はカサヌパームチ(植物の葉で包んだ餅)をつくるが、バソーヌパー(芭蕉の葉)ムチ、サミンヌパー(月桃の葉)ムチが多く、与那国はクバヌパー(蒲葵の葉)ムチが特産。ミシィ(神酒)やブンヌスーとともに神前に供えられ、今年の収穫に対する感謝の儀式にも使われる。

ブンヌスー
○ブンヌスー
 ブンヌスー(白保ではマーガリスー)とは、ブン(盆)と呼ばれる9品盛りの器に、スーと呼ばれる和え物を入れた料理。これにはなくてはならない野菜と海藻があり、それをカンズー(神和え物)という。カンズーは次の6品。
*イシャヌメー(いぼぐさ)=田畑で神様が作り、土の神が育ててくれたもの。
*サフナ(ボタンニンジン)=山辺、崖の上、石の頂上に神様が作り育てたもの。
*インミズナ(みずひゆう)=海辺で神様が作り育てたもの
*イイシ(つのまた)、カーナ(おごのり)=竜宮の神様が育ててくれたもの。
*マンジュマイ(パパイヤ)=四季折々に栄えるもの
*マミナ(もやし)=繁栄の象徴
イシャヌメーは子(ね)の方向(盆の左上)、サフナは寅の方向、(盆の右上)など配置も決まっている。中央にはすべての混合物の上に3尾の小魚、その周囲に9尾の小魚を立てたウフズー(大和え物)を配置し、わら芯2本で周囲を縛る。和える味噌は、赤味噌、ニンニク、ゴマ、落花生、砂糖をあわせたもの。八重山の自然の恵みを素材とし、神に感謝し供えるのがブンヌスー。(『八重山生活誌』)
○ミシャグ(ミシィ)
 神前に捧げる新穀によってつくられた神酒をミシィあるいはミシャグとよんでいる。戦前までは、選ばれた歯の丈夫な健康な若い女性(ミシカンピトゥといった)が新穀のご飯を噛んで吐き出して貯め、石臼で挽き、密封し醗酵させミシィをつくった。古くは、粟、キビ、麦、芋でもミシィをつくったといわれている。近年は噛んでつくることはなく、ミキサーを用いる。


ミシャグパーシィ


宮鳥御嶽でのミシャグパーシィ
 新穀でつくったミシャグ(ミシィ)をたたえ、神をたたえ、来年の豊作をお願いする瑞謡をうたいながら飲みまわす儀式をミシャグパーシィという(大浜村ではスヌザラパーシィ、西表の祖納や干立では角皿・中皿という)。四カ字のオンプーリィでミシャグパーシィを行う御嶽は、登野城=イニナス御嶽、天川御嶽、大川=大石垣御嶽、美崎御嶽、石垣=宮鳥御嶽、新川=長崎御嶽。
 登野城村は、天川御嶽でミシャグパーシィをおこなったあと、前年おこなったエンヌユーヌニガイの終結を報告し、願解きの儀礼バンパジィをおこない、旗頭、太鼓、巻踊の奉納をしてオンプーリィを終える。新川村は翌日のムラプーリィの準備のためにミシャグパーシィの行事だけで終わる。


四カ字のムラプーリィ



 ムラプーリィは新川のマイツバーオン(真乙姥御嶽)を中心におこなわれる。マイツバーはオヤケアカハチの乱の論功で頭となった長田大主の妹。王府からイラビンガニ(永良比金)の神職を授けられ、琉球王府に上国の帰途遭難してアンナン国へ漂着、そのおり良質の稲種子や穀物の種子をもちかえったとされる。
 ムラプーリィの日、各村はそれぞれ午後になると旗頭を先頭にマイツバーオンに集合する。4つの村が出揃うと、新川から順に各村が、旗頭、太鼓の手、巻踊の奉納をおこなう。そして、五穀の種子の授受、アヒャー綱、ツナヌミンとすすみ、大綱引で大団円をむかえるのである。

○旗頭
 旗頭は太鼓隊(太鼓・銅鑼・ションク〈鉦鼓〉打ち・ホラ貝吹きなど30人ほどで構成)をしたがえて「サーサー、サーサー」と掛け声とともに賑やかに誇らしく道を練りあるく。祭の華である。マイツバーオンの前に勢ぞろいした旗頭の様子は、まさに大いなる神々に捧げた花束のようである。
 旗頭は村のシンボルであるため、各村は精魂込めて意匠を凝らして旗頭をつくった。豊年祭に出す新川の旗頭はターガシラ(田頭=田と鍬、鎌を組み合わせたデザイン)とヤーガシラ(矢頭=矢と的のデザイン)、旗の文字は「祈豊」と「請福」ときまっているが、各村は他村のものに比べて見劣りすることがないよう競って製作した。
 たとえば、登野城の旗頭にはハッキカシラ(八卦頭)、松竹梅頭、立浪頭、オーコーチョウ頭、キジボタンなどがあり、文字は、戦前は、祈豊年、祈有年、祈井雨、祷雨、沛然下雨、戦後は、祈豊年、沛然下雨、祈瑞雨、祈慈雨、稔豊、天恵豊、祭政一致、金波千里、来夏世、弥勒世などが書かれた。
 時にはアイディアが盗まれたとして激しい対立がおこったこともあったという。これをカシラムンドウ(頭問答)と呼んだ。「大川の長田紀光翁の伝えによると、明治十五年頃観音堂道路のミチィクサイ?道こしらえ?の時(註・恐らく完成祝のとき)白保村の旗頭は新川村のものを盗んだということで、新川は村を挙げて騒然となり、集団暴力で白保の旗頭を散々にこわし、人にも傷を負わせ、警察沙汰にまで発展した大事件もあったという」(『登野城村の歴史と民俗』)
 豊年祭に奉納される旗頭。立て方にも意味があるようである。
「山ガシラの立て方は、東からおこして立て、儀式がすみ行事が終了すると西方へ向けて倒し片付けるならわしであった。そのわけは、東方から昇る太陽のように、村の繁栄を祈願することになり、西方へ倒すのは、願いが成就したよろこびを感謝し〈ハイロリタ〉(入りたまわった)の意が込められているとのことである」(『伊原間村誌』)

マイツバーオンでの巻踊
○巻踊
 御嶽の庭を右回りに進みながらおこなう集団踊。新川の巻踊は、印旗、五穀の種子の入った籠を持つ稚児を先頭に、白朝衣を着けクバ扇を持つ年配婦人の水の主、紺地衣で合掌しながら瑞謡をうたう長老たち、ザイを振って舞の所作をする婦人、脱穀をする稲摺臼の少年少女、青壮年による杵持ち、勇壮な鎌払い、田鍬を持った田打ちと続く。その間を縫うように俵をかついだ道化が、シッテシッテとかけ声を発しながら動きまわる。まさにダイナミックで華やかな絵巻である。     (石垣博孝)
○五穀の種子の授受
 真乙姥御嶽の前の道路。東からは童子を伴ったユーヌヌシ(世の主)(『登野城村の歴史と民俗』)、西からは童子を伴った巫女、ともに板舞台に乗って東西から相寄って、ユウヌヌシから巫女に作物の種子を授けるもので、授受が終わると再び東西へ分かれていく。




アヒャー綱
○アヒャー綱
 アヒャーは貴婦人の意味。女性たちだけでおこなわれる綱引きのことだが、実際に引き競うことはしない。選ばれたひとりの女性が拝殿のツカサ(神司)からうやうやしく貫棒を受け取ると、大綱を囲んで準備を整えている群衆の中へ迎え入れられる。
 雄綱と雌綱をからませ、件の女性が貫棒を差し込む。瞬間、歓声をあげ、一気に盛り上がる。女性たちが身をすり寄せながら手を押し上げ、リズムをとって踊り出すと、周辺からも歓声がおこり大きなかたまりになって動いていく。
(石垣博孝)
〔由来〕昔役人の妻子や姉妹たちが旅の願いのため真乙姥御嶽にこもって手持ち無沙汰のあまりわらを持ちよって縄をない航海安全を祝った。また、雨乞いの時に、士族の夫人たちが綱引をしたところ大雨が降ったので、以来、真乙姥御嶽の前で綱引をすることになった。

ツナミヌン
○ツナヌミン
 アヒャー綱が終わると、婦人たちは示し合わせたように枝綱をとって、100メートルほど西のほうへ大綱を移動させる。四カ村の旗頭、太鼓隊もともに動き大綱引に備えるのである。
 大綱の移動をしおに女性中心の儀礼から男性中心のものへと移っていく。若者は各村の印旗をもって群れをつくり、掛け声をあげながら路上を行き来する。いくつもの群れがぶつかり合い、しだいに興奮のるつぼと化していく。折り折り、その群れへ水が掛けられ、体から立ち上る湯気の中で、一層ダイナミックに展開される。これをガーリという。
 日がかげりだすと、新川の2基の旗頭が東西に移動する。矢頭が東、田頭が西で、大綱引の一連の始まりである。東西に分かれた旗頭に灯がともされ、いくつもの炬火がはじけると、板舞台に乗った武者がせり上げられる。東は長刀、西は鎌を持った武者である。
 両者は暮れそめた夏の空を背に凛々しく立ち、遠くの相手を睨みすえて、威嚇の飾り手を何度も行う。指笛と歓声が飛び交い、緊迫した空気が漂う。両者は旗頭の先導で相寄っていく。
 中央部で東西の板舞台が合わされると号砲が鳴り、両者が闘いはじめる。掛け声が飛び、はじける火の粉の中で両者は技の限りを尽くして闘う。そして、号砲とともに、矢のような早さで東西に分けられる。
 これをツナヌミンといっている。ツナヌミンは綱のミンということになるが、ミンの解釈については未だ納得のいくものがない。ともあれツナヌミンを大綱引の前に配した演出は絶妙で、奔流を一瞬せき止め、更に大きな力となってほとばしるエネルギーを湧き出せる「溜め」に成功している。 (石垣博孝)



ツナミヌン
○大綱引
 東の綱は雄綱で、登野城・石垣、西は雌綱で大川・新川が引く。多くの者が綱に取り付いていることもあって、綱は生き物のようにうごめき、ちょっとしたことにも手間取ってしまう。ようやく雌雄の綱が合わされると貫棒が差し込まれ、号砲とともに東西へ引き合う。鉦や太鼓が連打され、掛け声や指笛が飛び交う。勝敗が決まると再び号砲が鳴り、大綱引を終える。
 大綱引は西(雌綱)が勝つと豊作になるといわれ、そのための工夫もしたという。しかし近年は専業農家が少なくなったこともあって、豊凶の行方にあまり気配りをしなくなっている。かつての運命共同体は質的な変化を余儀なくされ、個々人がよければという風潮に変わってきている。

>[特集]八重山の豊年祭「月刊やいま 2009年7月号」

 


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