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トップ  >  はいの晄の八重山  >  野底宗吉さんの昔語り 「ああ、ふるさと 下地島」 第5話・学校時代|はいの晄の八重山

野底宗吉さんの昔語り 「ああ、ふるさと 下地島」 第5話

写真・文 はいの 晄
「バタリャを漕ぐのは下地の村役者。若者が1週間交替で役についた。公用があるときは上地で太鼓を 叩くんですよ。どこの畑におっても村役者は駆けつけた。オーイと呼んでも聞こえた。」

第5話・学校時代


ナアサキから上地島のハマサキをみる。
かつてバタリャ(渡し舟)が子どもたちを乗せてこの海を行き来した。
 私は大正6年11月18日、新城下地島で生まれました。父は野底真祢、母はナヒマ。6人兄弟の3番目で長男として生まれました。
 私らの時代には下地に分教場ができていましたが、それ以前は、下地の子どもたちも上地の本校に通っていたそうです。当時、校長と女先生ひとりが上地の本校に居って、私たちの分教場は男の先生がひとりで1年生から6年生までみていました。1年から6年まで1クラスでした。
 校舎は、茅葺きで土間。浜のジャリを敷いて、その上に机。二人一緒で。椅子も二人一緒。1つの教室に1年から6年まで一緒だから、うまく先生は時間割をきめて、1・2年生は予習とか、3・4年生は昨日の復讐とかきめて、5・6年生は当たり前の勉強をする、と。そうしなければ実にならないわけです。ああいいふうに先生はやっておったです。
 2時間目は、今度は3・4年生が当たり前の授業をするとか、違えるわけです。体操もなにもかも先生ひとりでがやったですよ。校舎の入り口は南側にあって、門が真中にあった。
 学校の東側には個人の空屋敷があって、運動をやるときはそこを借りてやったですよ。土地は十分にあって畑はどこにもできたですから、土地を貸したからといってその人が支障をきたしたというわけではないですからね。はい。
 生徒は30人ぐらいおったかねえ。先生は、私らが1年に就学するときには伊舎堂なんとかという先生がいらっしゃって、そのあと大浜寛行さん、それから、新川盛光と言ってよ、地元の下地出身の先生ですよ。この人は訓導ではないですよ。代用教員です。石垣の高等科を出て検定試験を受けて代用教員の免許をとったのではないかと思います。この人が、6年卒業するまで教えたんです。私らの同期生は9名、多かったですね。いまは私一人が生き残っているけど。
 私ら下地の生徒が上地の本校に行くのは運動会とか四大節、終了式、卒業式とか何か大事なことがあるとき。上地の学校は瓦屋根で、40名ほどの生徒がいて、ふたつ教室があったんではないかな。
 運動会が近づくと、練習のときも上地の本校に通うわけです。バタリャ(渡し舟)で何回も通う。バタリャといってよ、10人乗りぐらいの伝馬船があったんですよ。櫓で漕ぐ式の。役場がつくって下地のナアサキ浜に置いてあったです。船は前のほうだけ砂浜に引き揚げておいた。これで10分くらいで上地のハマサキに着いたですよ。はい。
 上地と下地の間はいちばん深いところで5メーターくらいと思うんですけどよ、距離は420〜30メートルくらい離れているんです。バタリャを漕ぐのは下地の村役者。若者が1週間交替で役についた。公用があるときは上地で太鼓を叩くんですよ。どこの畑におっても村役者は駆けつけた。オーイと呼んでも聞こえた。5、6年になると、泳いで渡って、バタリャを漕いで来て、みんなを乗せるということもあった。


下地分教場跡に立つ野底宗吉さん。
 学校時代、私は勉強が好きではあった。字を書くのはとくに好きだったですな。習字の本といってよ、一辺10センチもない紙に、そこに1文字ずつ文字の書かれたものがあったですよ。書き方の本。練習の時はザラ紙をつかって、提出するのは白紙。
 終業、卒業のときの賞品に白紙の束(50枚くらいを3つに折ってあった)を何回かもらったことがありましたよ。はい。
 卒業証書もらって、島には高等科がないからね、ですから私は黒島で高等科を出たんです。私の親父の友人が黒島におってですね、その友人に頼んで、宮里部落の、波座真さんという家に2年間お世話になってね、それで黒島で高等科を卒業したわけです。当時黒島校の生徒は250〜60人いた(高等科も含めて)と思いますよ。たいがいもう黒島は大きかったですよ。
 黒島の高等科を卒業して、島で農業をしながら青年訓練学校に通い、私も新川盛光さんのようにできんかと思って、検定試験を受けたんですよ。あれ、12科目あるんですよね。6科目は第一次試験で合格したんですが、どうせお前は兵隊にとられるよと言われたもんだから、あれ、義務だからね、それじゃあ志願して早く軍隊の義務を済ませて、それから先生の端くれにもなってみるかという気持ちで、兵隊に志願したわけです。はい。
 青年訓練学校ですか? 当時師範学校を卒業した学校の先生は、短現(短期現役)というのがあって、半年間軍隊に入って訓練を受けて、そして伍長になって学校にきたわけです。学校の子どもを教えながら、青年学校で村の青年たちを集めて軍隊訓練もやりました。私らのころは亀川安兵衛先生でした。
 青年学校は上地の本校にあって、私たちは上地にわたって、週に1回くらいのものでしたかね、軍事訓練をやりましたよ。いや、鉄砲はにせもので、僕ら、自分で木銃をつくってただもっておったです。
 匍匐前進とか、銃剣術とか、原野に行って疎開戦闘訓練とかも。上地では、ポンヤマの手前あたりの畑で、あすこで、木に目印をつけて、仮想敵を想定して歩兵の戦闘訓練など教えられたですよ。
 昭和10年ごろですから、そのときまではのんびりしたものでした。訓練とはいっても半分遊びみたいにしてですね。戦争の気配なんか全然ない時代だから。しかし、指導員は軍隊式でやるからね、厳格にしていましたよ。はい。
 だいたい2、3時間くらいですな。訓話もあったですよ。軍人勅諭なんか軍隊に行くまでにはみんな憶えておったですよ。涵養されたというかね、軍人精神が打ち込まれた。
 教育によって人間はだんだんそうなりますよ。軍隊から帰ってくる先輩たちは羨ましかったです。はい。私たちが小さい頃から青年たちがやっていましたから、自分たちも自然にそうなりましたね。感化というかな。はい。



 


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