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トップ  >  はいの晄の八重山  >  野底宗吉さんの昔語り 「ああ、ふるさと 下地島」 第7話・戦中、そして終戦直後|はいの晄の八重山

野底宗吉さんの昔語り 「ああ、ふるさと 下地島」 第7話

写真・文 はいの 晄

第7話・戦中、そして終戦直後

●馬といっしょの軍隊生活
 熊本の部隊で内務班。1班20名内外だったんでないかな。入営したのが(昭和)12年の1月ですからね、死ぬぐらい寒かったですよ。軍隊は布団カバーに毛布2枚入ったものをかけて眠るんです。はい。
馬の世話、これが大変ですよ。起床!といったらパッと起きて、自分の寝具を片付けるでしょ、すぐ営庭に出て点呼。今度は厩に早駆けして、チャー走り。着いたら、馬を馬小屋の外に出して、寝藁を掻き出して。糞もたれるでしょ。寝藁は天気がよければ外に干して、糞をとって(糞を貯める場所がある)、それから、外に出した馬の蹄を洗って、蹄油を塗って……。
そうこうしているうちに食事ラッパが鳴るんですよ。そしたら駆けていって食事。食べ終わらないうちに今度は演習ラッパが鳴る。口の遅い人は半分も食わないうちに。馬小屋に行って鞍を出してきて装着して、そして整列するんです。もう、大変ですよ。騎兵みたいに難儀なものないです。
2年兵が「貴様らは死んでも一銭五厘で補充くるんだよ、馬は何百円、何十円するんだよ、馬が偉い!」と。
馬は、調教師がいて、朝から晩まで訓練して一人前になった馬を兵隊に渡すんです。月給もらってやっておるんです。調教師何名ぐらいおったかね。軍属みたいな格好して。
私の馬はよかったですね。はい。馬によっては、噛むの、蹴るの、前足で引っ掛けるの、いろいろ。そういう馬はタテガミとか尻尾とかに赤い印をつけていました。アトビキ馬といって、びっくりすると後ろにひっくり返る馬がいる。
馬の足の筋肉は真後ろにまっすぐ蹴るようになっておるんです。牛は横になっておる。何回か蹴られたね。大事はなかったです。馬を驚かさないように、オーラオーラと声をかけて、そうしないとびっくりする。
騎兵は機動が早いから連絡などは騎兵の任務だったですよ。敵に遭遇する時は戦闘もやります。歩兵は突撃、騎兵は襲撃ちゅうのがあります。軍刀を抜いて突入し突くわけですよ。伏せているのを背中から突け、と。これが騎兵の襲撃ですよ。はい。馬は人を踏まないですよ。しかし戦地でそういう経験はなかったですね。敵情偵察などに利用された。
私は戦地に行って、馬が倒れたんです。とうとう装具全部はずして、そのままほっとらかすんです。……だから、今日の今まで、馬肉を絶対食べないです。支那で別れた馬のこと思い出してですね。はい。

●みのかさ部隊で終戦
 昭和18年だったですかね、除隊して(新城島に)帰ってきて、今度は竹富村役場に採用されたですよ。はい。
当時の役場は、石垣町役場(今の博物館)の東側。ここカミヤと言ったですかね、瓦家で、ここを借りて。昭和13年に竹富島から移ってきたそうですよ。
ここに1ヵ年くらい勤めておったかね。戦争どんどんたけなわになるんですよ。そしたら、竹富村役場は、もう八重山も危ないということで、町長と、助役、収入役、それから戸籍主任、兵事主任、これだけ残して、ほかの平職員は全部解散したんですよ。そして重要書類を持って、役場は竹富島に移ったんです。あとから聞いたらですね、竹富島も危険だということで、最後は小浜島に移ったということを聞いたんです。
役場が解散してからですね、今度は白保部隊に来いというので召集されて、あの「あしなか部隊」とか「みのかさ部隊」というのよ、アレに召集されて。あそこでは、全部、軍隊に行かない未訓練の、補充兵みたいのばかりでしょ、600人から800人ぐらいおったと思うんですよ。集めて、飛行場の弾痕埋めね、これが作業ですよ。現役に行ってきたものが要所要所についておる。
今の白保小学校の上、西側のブンドウというところ、そこに、三角兵舎といって、こんなに樽木を地面までつけてですよ、茅で屋根葺いて、真ん中から通路を通してですね、両方に人が寝泊りできるようにして、アダンブラを切って偽装して、枯れたら青い葉っぱを取り替えたりして。
白保の東から戦艦が20隻くらい北に行くのが見えるんですよ、昼。見えるけども、ぜんぜん爆撃しきれないですよ。歯がゆいもんだから、伊舎堂大尉が、この人なんかが突っ込んだのはあのときだはずですよ。
飛び立つ時に、通信筒に別れの手紙を入れて、自分の家へ落としてそのまま爆死したらしいんです。はい。
ここで終戦になってよ、みんな解散したんですよね。そしたら、残務整理があるから各字から一人ずつ残れと。新城関係者は私。指名された人だけは、ティマ(手間賃)も何もないのによ、残されて、9月の初めごろが私ら島に帰ったはず。

●島を生き残らせるために
 私は当時大原移住していないですからね、戦争が終わって(下地)島に戻ったですよ。
終戦後、島に少しずつ人がもどって落ち着いたころ、酒を石垣から買うより、酒づくりの許可を得て、自分たちで作ろうじゃないかと、そのとき私が組合長になってね、ようやく年に1石酒をつくるという許可をもらってつくりよったです。はい。酒は、祭につかうんだと。個人用じゃないと。
米や粟を係が村中から集めて、これを、はい、女役者などに責任持たせて、麹たててですね。この麹菌も石垣の酒屋あたりから少しずつ分けてもらって買ってきてからに。いえ、石垣の登野城に玉那覇という酒屋があったですよ。島出身の若者が、その玉那覇酒屋の息子と友だちで、そのツテを頼って、麹の作り方習ったですよ。
モロミつくって、蒸留して……。ところが器具がない。これをまた石垣に行って購入してですね(冷やしてがぞろぞろと出すんですから)、初めて酒ができたときの喜びは、これはもうなんとも言えなかったですな。相当苦労しましたよ。
石垣から買うのは主に日用雑貨ですね。買い物は、時々雑貨が欠乏した時に、個人的に船を出すと、僕の何々をいくら買ってきてくれれと、金を預けてですね、あんなにしてが用を足していたですよ。
島のことはもう全部やってきましたが、これに何も報酬もなし、ああいう小さい島ですから、もう、頼る人もいないですよ。はい。今考えてみたら馬鹿みたいにおるけれども、そうしないと島は生きて行けなかったですよ。誰かが犠牲にならないとですね。
よくやったと思いますよ。祭から行政関係から、自慢じゃないですけど私がやっておったんですよ。仕方なかったですよ。



 


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