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トップ  >  セレクト特集  >  今、アカハチの乱を振り返る〜オヤケアカハチ 没後500年を迎えて〜|八重山を読む!セレクト特集

今、アカハチの乱を振り返る 〜没後500年を迎えて〜

砂川哲雄

15世紀の琉球(沖縄)の時代状況

 アカハチの知名度に比べ、この事件の状況や当時の琉球の時代背景はあまり知られていないばかりか、誤った考えがいまだに語られたり、書かれたりしています。アカハチの事件の時代的背景をここで少し見てみましょう。
今、アカハチの乱を振り返る 〜没後500年を迎えて〜

中山王府の中央集権化
 15世紀の沖縄本島では、1470年、金丸がクーデターに成功し尚円王となって即位し、第2尚氏王朝を樹立しました。そして1477年には琉球の歴史上名君の誉れ高い尚真王が12歳で第3代目に即位し、その後50年間にわたって黄金時代を築きあげました。尚真は行政機構や地方統治を強化し、聞得大君を頂点とする神女組織をつくりあげ、中央集権化をすすめ、強力な王府をつくりました。

宮古の仲宗根豊見親
 一方、宮古島では仲宗根豊見親が1474年、尚円王から宮古島の首長に任じられ、最も有力な支配者としての地位を固めます。山らしい山のない宮古島の有力者たちは、造船材を求めて石垣島や西表島に渡りました。特に西表島はその求心的な存在となり、宮古の豊見親の勢力が支配的な力を及ぼすようになりました。「慶来慶田城由来記」という史料や宮古島・八重山島の伝説・歌謡には当時の様子が伝えられ、歌われています。

八重山における群雄割拠の時代とアカハチの台頭
 15世紀の八重山は群雄割拠の時代といわれます。その人物像を見てみましょう。
 石垣では現在の石垣村に長田大主・ナレトウ・ナレカサナリ3兄弟、大浜村にはオヤケアカハチ・ホンガワラをリーダーに同じく大浜村のコルセ、平得村のタケチャ、川平村に仲間満慶山、平久保に加那按司、西表島には祖納村の慶来慶田城用緒、波照間島には明宇底獅子嘉殿、与那国島には女傑のサンアイ・イソバと鬼虎などがそれぞれの地域の中で台頭していました。その中でもアカハチ・ホンガワラが大きな勢力を持つようになりました。

アカハチ・ホンガワラの乱


事件の発端
 宮古・八重山は1390年、中山に初めて朝貢関係をもつようになります。しかし、その関係はまだゆるやかなものでした。一方で、宮古・八重山の関係は仲宗根豊見親の力が西表島を中心に波照間島や石垣島の一部に強い影響力を及ぼしていました。ある年仲宗根豊見親が貢催促のために八重山に渡りました。ところがアカハチはそれを両3年間も拒否した上、宮古島を攻めようとする様子が見えました。アカハチの力が増すにつれて、八重山における支配力が侵された上に、その手が宮古島に及ぶことを恐れた仲宗根豊見親は中山王府へ訴えたのです。このとき仲宗根豊見親と親戚関係にある長田大主一族はアカハチに組しなかったために弟のナレトウ、ナレカサナリは殺され、長田大主は追われて西表島の古見に逃れました。ただ妹のクイツバはアカハチの妻になっていました。
 また、波照間島の明宇底獅子嘉殿はアカハチ支配下のタケチャ、コルセの説得に応じなかったために、無理やり船に乗せられた上、小浜島の沖で殺害されて海に投げ捨てられました。川平村の仲間満慶山はナカスメーでのアカハチとの会談の帰りに、名蔵湾のケーラ崎で討たれました。
 この事件を具体的に記した初めての王府編纂の歴史書『中山世譜』(蔡鐸本・1701年)には「琉球国が管理する島に、宮古と八重山とがある。毎年貢納していたが、この2、3年の間、八重山島は心変わりした上、反乱して攻撃しようとした。大宮古はこれを首里の国王に報告した」とあります。

戦況
 この報告を受けて、首里(中山)王府は直ちに八重山に出兵します。その様子を先の史料を中心にほかの史料の情報も交えながら見てみましょう(蔡鐸本『中山世譜』の部分については原田禹雄氏の現代訳を参考にします)。
 首里王府は1500年旧暦2月2日(太陽暦3月1日、以下かっこ内は太陽暦)、大里親雲上ら9名を大将に命じ、軍船大小46隻(100隻という史料もある)に3000人が分乗して那覇港を出港、宮古島の仲宗根豊見親、多良間島の土原オゾロらの軍船と合流、2月13日(3月12日)に八重山・石垣島に到着、長田大主も西表島古見から小舟で合流して案内します。2月19日(3月18日)に地形や八重山側の情勢を見るために小舟に乗って岸に上がりました。ところが敵陣の前方には大海が広がり、背後には険しい山がある上に、婦女子たちが各自草木の枝を手に、天に号し、地に叫び、呪文を唱えていました。しかも官軍が上陸しても恐れる気配がありません。八重山の首領・堀川原赤蜂も首を出して挑戦し、王府の兵も岸に近づいて双方とも罵りあいました。しかしその日は悪日ということで両軍とも戦いませんでした。首里王府軍は翌2月20日(3月19日)、46隻の軍船を2隊に分け、登野城と新河(川)の両方から攻めて戦った結果、ついに八重山側は敗走し、アカハチも底原山に逃げましたが追っ手に討たれて戦死、その妻クイツバも降参しなかったため、その一族郎党すべて打ち殺されました。

戦後処理
 この戦いで官軍側に立った仲宗根豊見親には宮古の頭職、弟・真苅金豊見親には八重山の頭職が戦功として与えられ、土原オゾロは豊見親の称号、長田大主は古見大首里大屋子、その妻マイツバは大阿母(ほーるざー)という神職をそれぞれ授けられました。

事件の歴史的意義

 この事件が起こる要因は大きく見て3つあります。1つはアカハチ、長田大主、仲間満慶山などの勢力争いがあったということ。2つには、八重山の一部を支配下に置いていた宮古島の仲宗根豊見親とその勢力を脅かす勢力に成長したアカハチとの確執、そして3つには、このような宮古・八重山の状況が、海外交易による富の集積と沖縄本島をすべて支配下に治めて、さらに周辺離島を含めた全島統一(中央集権化)をすすめようとしていた中山王府に軍事介入を与えるきっかけをつくったということです。
 そしてその後行われた与那国島の鬼虎制圧などの結果、古代化の道を独自に歩んでいた宮古・八重山の歴史は中山王府の沖縄全島統治という大きな歴史のうねりに呑み込まれ中断されました。ここに中山王府の先島に対する実質的な支配体制が整備され、強化されたのです。


500年前のアカハチの乱の時代ってどんな時代だったのだろう?
「住」アカハチはどこに住んでいた?
 アカハチは、現在の石垣市大浜にある公民館あたりに住んでいたと言われます。一方で史料にアカハチ軍が「険阻を背にして」とあることからそれが近くにあるフルスト原遺跡で、そこが居城だったのではないかとする説もありますが、考古学研究者は慎重です。またはっきり否定している研究者もいます。フルスト原の遺跡そのものはアカハチ以前にすでにできあがったと見られています。

「武器」アカハチの軍勢の武器は何だった?
 はっきりしたことはわかりません。中山軍はすでに本島各地の按司から刀を始め武器を取り上げ大量に保管していました。八重山の有力者たちも私貿易によって刀などを持っていたことは記録からも推測できますが、しかし、それほどの数があったとは思えません。石垣島の於茂登岳にある竹は古来から武器の材料として宮古からも取りに来たりしています。ですから、アカハチについた農民たちの武器はもっぱらそのような竹槍などが中心だったと思われます。

「宗教」アカハチ反乱の原因の1つとされるイリキヤアマリとはどんな神?
 伊波普猷は、イリキヤは屋根、アマリは天降で、冬眠の祖神と言っています。記録では八重山の開けはじめた最初の神で毎年時を定めて来訪したとありますが、すでに詳しい由来は忘れられていたようです。首里王府はこの神を実体のない、いたずらに百姓を疲れさせるだけのものとして、1678年に禁止します。アカハチの乱から実に178年後のことです。これは尚真10年(1500年)と尚貞10年(1678年)を単純に間違えたものです。また禁止した毛氏・恩納親方按司も尚貞王時代の三司官(王の重臣)です。ですから、イリキヤアマリが禁止されたことがアカハチの反乱の原因の1つだったというのはありえないことです。しかし、今でもそのような説が根強く残っています。

「アカハチのイメージ」をめぐって
 なにしろ500年前の出来事であり、人物なので、当然ながら写真はない。それで、昔からいろんな画家たちがそれぞれの「アカハチ像」を自分なりに表現してきた。そこには「アカハチはこんな人物だったのでは?」という制作者の想像もかなり含まれている。そして今年、そのイメージが大浜村の「アカハチ像」となっていよいよ具現化された。この銅像は、がっしりした大男で力持ち、髪は赤茶けて縮れ、日本人離れした精かんな顔つきだったという伝承をもとに造られたそうだ。ただ、「本当はどんな顔だったかも分からないし、謎だらけなのに、こうして形にしても良いのだろうか?」や「子どもたちがこれがアカハチだと思いこんだら、想像の余地すらなくなる」などの危惧する声も聞こえる。
 さて、あなたの思い描くアカハチとは、どんな人物?

Q&A アカハチをめぐる謎の数々
Q.クイツバは八重山歴史上の初めての悲劇のヒロイン?
 クイツバはアカハチの宿敵・長田大主の妹です。ですから、アカハチと長田大主は義兄弟になります。クイツバがアカハチの妻になったわけを政略結婚と見る向きもありますが、はっきりしません。クイツバは最後までアカハチの妻をつらぬいたために一族郎党とともに、王府から処刑されました。その意味では八重山歴史上の最初の悲劇のヒロインと言えます。八重山最高の神役を授けられ、歌にも残された姉・マイツバと比べると姉妹の明暗があまりにも対照的です。マイツバは真乙姥御嶽として崇敬され(下&中写真)、クイツバは逆賊の妻としてその境内の片隅に小さな墓が造られ、見せしめのために人々に踏ませました。その後近年になり、それでは不敏だということで大浜の崎原公園内にあるアカハチの碑の側にクイツバの碑が建てられました(上写真)。

Q.長田大主と宮古島の仲宗根豊見親は親子関係というのは本当か?
 そういう伝承もありますが、長田大主を元祖とする長栄姓の家譜には、その父は宮古島の忠導氏の後胤(子孫)とある以外は不明です。年齢的な問題もあって、親子ということについては疑問視されていますが、血のつながりはあるようです。それが仲宗根豊見親についた大きな原因の1つかも知れません。

Q.アカハチの乱以前、八重山は宮古島の豊見親に支配されていたというのは本当か?
「慶来慶田城由来記」という八重山の史料にある「先島は沖縄加那志(首里王府)に支配される以前は、宮古の豊見親が八重山島をすべて従わせ支配していた」という記述がもとになっています。しかし、すべて支配していたということには疑問がもたれています。宮古の豊見親が具体的に誰なのかも不明です。

Q.首里王府の軍勢は、軍船48隻(あるいは100隻)で兵力3000人とあるが、当時の船でそれだけの人数の乗船は可能だったのか?
 沖縄学の父・伊波普猷が紹介している、アカハチの乱の翌年(1501年)尚真王の使節が朝鮮訪問したときの朝鮮(李朝)の記録を見てみましょう。
 それによると、1つの船に350人、2つ目の船に70人、3つ目の船に30人、柴水船に20人、合わせて4隻の船に470人乗り込んでいます。それから考えると仮に48隻と考えてみても3000人は十分に乗り込めることになります。ちなみに、3000人という数は1609年に島津氏が琉球を武力で侵略した際の規模と同じであり、首里王府がいかにアカハチの勢力を脅威に感じていたかうかがえます。

Q.首里王府軍は石垣島を東回りできたのか、西回りで来たのか?
 現在の船の航路と同じように西回りだったと思われます。東側はリーフが発達していて軍船が航行するのは困難だからです。また長田大主が古見から合流したことを考えれば西回りで竹富島沖で停泊したと考えたほうがいいと思います。

Q.オヤケアカハチ・ホンガワラは2人?
 アカハチの名前が最初に出てくる蔡鐸本『中山世譜』には「賊首・堀川原赤蜂」とあり、1人扱いですが、八重山や王府の史料の一部に「オヤケアカハチ・ホンガワラという2人」とあることが、今日の2人設、1人設の原因です。現在も研究者の間で意見が分かれていて、決定的なものはありません。

Q.アカハチや長田大主の年齢はどのくらいだったのか?
 アカハチについては分かりません。長田大主は1456年に生まれたという記録があります。ですから事件当時は44歳になります。アカハチと長田大主は波照間島でともに育ったといいますから2人ともそう年齢の差はなかったかも知れません。


>八重山の歴史を読み解く「八重山歴史読本」
>「オヤケアカハチの乱とは何か?「八重山の社会と文化」
(情報やいま2000年10月号より)

 


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