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トップ  >  はいの晄の八重山  >  野底宗吉さんの昔語り 「ああ、ふるさと 下地島」 最終話・豊原、大原、そしてふるさと|はいの晄の八重山

野底宗吉さんの昔語り 「ああ、ふるさと 下地島」 最終話

写真・文 はいの 晄

最終話・豊原、大原、そしてふるさと

●下地を離れ豊原に移住
 昭和12年の1月軍隊に行って、それから支那事変に参加して、上海攻略、南京攻略、漢口攻略まで。また南京に戻って、そこで退役。戦争で5年間ですよ。はい。
 昭和18年、島に戻って竹富役場に採用されたが、それから戦争が激しくなってみのかさ部隊に行って、そして終戦になったですよ。そしてからにが島に帰った。
 その頃、家族は7名か8名くらいおったんですよ。妹、弟もまだ分家してなくて、だからもう、何でも物を作って食べんといかん。新城(下地島)で粟、麦、豆なんかつくって、米は(西表島の)南風見田に通って作って。
 戦前大原に移住していた人も、終戦後はみんな下地に戻ってきたですよ。下地にはマラリアはないですからね。仮小屋みたいな家をつくって、命の保養をして、あれからがまた一人去り二人去りしていったんですよ。はい。
 昭和28年かね、豊原に計画移民があったんですよ。そのころ日本経済が復興してですね、石垣とか沖縄に行けば賃金がもらえて、もう食うには困らないとどんどん人が出て行ったんです。私は最後まで新城に踏ん張っていたいという気持ちでおったんですがね、しかし第一、人がいなくなると、学校がなくなる。あのとき、子どもは2、3名できとったはず。はい。
 私らも仕方ないから、子どもらを学校出すためには…。大原にが学校ありますから、それで豊原に私らは移住したです。
 豊原は活気あったですね。あのころ豊原は竹富、宮古、新城、大宜味、久米島、伊江島からも人が移住して来た。大宜味の人は山の下に段々畑つくって大変喜んでいましたよ。大宜味の人で○○という人は、大変喜んで、もう、夜も寝ないで…。あのころちょうどパインブームだったんですよ。パインは酸性土壌がいいですから、豊原の土地は非常に適していた。
 そのあとはさとうきび。当時豊原には製糖工場があって、あるとき暴風があってですよ、組合長がおって、大宜味の人だったですが、「でぃ、陳情して修理代を」と。陳情やったらですね、うまく通って、200ドルか、修理費をもらってから、大工頼んで復元して。そうしているうちに大原に大きな製糖工場ができました。
 下地では現金収入はないけど、豊原では、営林署の植林事業とか、他人に雇われるとかいろいろありましたからね。金儲けも、農作物もできるし、豊原は畑も田んぼもありますからね、そりゃあ下地の暮らしよりはずっとよかったですよ。
 しかしふるさと恋しの人間の人情には変わりはないですよね。移住して4、5年は島に通って大きな祭はやりよったです。はい。

●大原まつりのはじまり
 豊原に移住しておるときにが、西表東部地区に竹富町の出張所ができるということになったんですよ。私はもう豊原で開拓移民として働いて10年くらいだったかね、子どもらも学校出しながらやっているうちにが、ここの勤務を命じられた波照間の○○というのがですね。彼が、26歳くらいでしたよ。そのころ僕はもう40は余っていたはず。
 そしたらですね。これが、テレビが普及してきた時代でしたから、自分は役場辞めてヤマトのテレビ技術専門学校に行く、と。だから役場辞めると言い出したんですよ。
 そしたら、東部地区によ、役場経験のあるのを探せ、と。で、豊原から古見、美原まで探したら、あんたしかいないと。私のかわりに出張所を見てくれれ、と。そうしないと自分はヤマトに行かれないと、拝み倒してくるんですよ。
 私はまたパインでもつくってなんとか一旗あげる方法はないものかと思って官有地を1町歩くらい(営林署の出張所に言ったら貸すんですよね)借りて、1反歩くらいは開けてあってね。そんなときに、これが急にあんなことを言い出したもんですからね。
 そのとき私の長女がちょうど高校受験なんですよ。考えてみたら、あのころ農業からの収入は知れたもんですから、これらを学校出すためにはどうしても給料取りがいいなというわけで、あの官有地も返して、それで大原出張所に勤務することになったんです。はい。
 大原出張所は大原にあって、人の家の一番座を借りてやっておったです。そして私も大原へ移ったんですよ。豊原の配分地には、日曜日になるとそこに通いましたよ。
 子どもたちは大原の小学校、大富の中学校へ通いましたが、あのころ中学校へはスクールバスがありましたな。中学校を卒業したら、高校は石垣島にがありますでしょ、子どもらの仕送りがありましたから、役所に勤めて月給がありますから大変助かりましたよ。
 大原で思い出すのは、大原まつりのことですかな。
 大原の出張所にいる時、花原さんという公民館長がいて、みんなができる行事をやろうと思うがどうかと相談をうけたんです。当時大原は新城の上地の人が主体でしたから、新城の人は(大原に住みながらも)新城の行事を島に戻ってむこうでやるもんだから、宮古の人、沖縄の人、久米島もおるでしょ、このまつりは自分らと関係ない、と。それぞれの土地からやってきた人がみんなで集まるようなことはなかったですからな。
 それだから花原さんは、大原部落に新しい行事が必要じゃないか、と。私も賛成してですね、そして部落有志集めて…。それが大原まつりですよ。
 どういうふうにやるか。あのとき大原には班が5班くらいあったと思うんです。各班ごとに催し物を仕込んで競争させた。競争心おこして、盛んになった。ブドゥリキョンギン(踊り狂言)をさせたんです。はい。
 10何年か大原出張所におってですね、昭和50年ごろに石垣に転勤になって、そしてここで定年したですよ。あれから現在に至っているわけです。
 いちばん思い出すのはやはり下地のことですな。はい。昔、自分が暮らしていた島でしょ。…行事がいちばん思い出されるね。行事のときは一致協力でヒヤヒヤしてよ、割り当てられた職務は、みんなが本気になって、これは自分のシュクブン(職分)だと。真面目にやりました。
 節、結願、アカムタ行事が島の三大行事でしたね。
 結願祭にはブドゥリキョンギンを納めるでしょ。あのころはとても盛大で、私らの前(の時代)は、御嶽で棒打ちもやりよったですよ。私らのころはまた、石垣から踊りの師匠を頼んできてが教えてもらったです。手間も払って、飯も食わす、晩は酒も飲ます。あんなにしてがやりましたよ。
 ユムチ(世持)が出てきて「村ぬクァヌチャーにブドゥリキョンギン仕組マッティアクトゥ、今日ぬユカル日に……」と。



 


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