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台湾への「旅」

文・写真 = 越智郁乃


「旅」の諸相

 「旅」という言葉を聞いてどのようなイメージをもつだろうか。八重山で年配の方々からお話を伺っていると、「あの人は沖縄にタビに出てね」というような言い回しを耳にする。ここで言う「タビ」は教育や職を求めて沖縄本島や内地に移動していったという意味で、一時的な移動だけではなく長期的な移動、もしかしたらもう八重山に戻ってこないような移動も含むのだ。確かに人生は旅に例えられることはあるが、もっと「生きていくこと」自体に密着した移動としての「旅」が八重山にはあるのではないか。ここでは、八重山からの植民地期台湾への移動に始まり現在の観光旅行にいたるまで、実際「旅」した人々の経験を交えながら、台湾への「旅」の変化を辿ってみよう。

植民地期の台湾へ

八重山から植民地期台湾への移動は、「修行」と呼ばれた出稼ぎや進学、台北の病院への入院なども含めると非常に多岐に渡る。『石垣方言辞典』の著者宮城信勇先生も、植民地期台湾での生活経験をもつ一人である。彼は当時の難関校である台北一中に進学した。台北に暮らす伯父を頼っての台湾行きとはいえ、一人での船旅は十歳そこそこの少年にとっては大冒険であったことだろう。面接試験の際、試験官に一人で台湾に来たことを感心されたのは言うまでもない。厳しい学校生活を送る宮城少年の楽しみは、街に出たときに買い求める日本の読み物やキャラメルであったという。台北には電車やバス、電気、道路など当時の日本の最先端の事物に溢れていた。多くの「日本人」が暮らし、共通言語は「日本語」であった。出稼ぎ経験者も同様に、職業経験や生活を通じて「日本」を体験したという。その後の戦争を経て、戦後の台湾への移動は大部分が「短期間の旅行」という限られた形態へと変化していくが、この時期の台湾経験が戦後の台湾への「旅行」へと繋がっているのである。

思い出の台湾へ

 戦後の混乱期を経て、1950年代から60年代初めにかけて早くも台湾への観光を伴う旅行形態の萌芽が見られる。それは単に最も近い外国となった台湾への旅行というだけではない。戦前の台湾経験がある人々が、かつて生活した懐かしい場所への再訪を求めたのである。宮城先生が戦後台北を訪れた際には、日本語の分かるタクシー運転手を探して再び一人で旧台北一中を訪れたという。この頃はまだ明確に集団旅行というような認識はなく、数人の集まりで台湾に到着するとそれぞれが行きたい場所へ赴いたという。
 1970年代以降になり、次第に集団旅行が増えていった。そこには主に貨物輸送だけではなく、観光旅行客をターゲットとした船が登場したことも大きな要因となる。1976年、造船間もない有村産業のフェリー「玉龍」に乗って台湾観光旅行をした宮良氏(仮名)の記録を見てみると、八泊九日の旅程は石垣埠頭桟橋から始まる。宮良氏は植民地期の台湾(基隆と台北)で理容業の修行をしたが、戦後の渡航には事前の旅券やビザの取得、予防接種、そして出入国管理官による出国審査をせねばならない。このような過程を踏むことで彼の中で国外旅行の気分が盛り上がった。しかし翌朝、基隆の港に着き、山々に囲まれた街に踏み出した宮良氏は修行時代を思い出す。現地ガイドから日本語で案内を受けながら、戦前のまま残る総督府(現在は中華民国の総統府)を眺めて昔を懐かしみ、修行時代には行くことがなかった台中、台南を訪れ、夜は台湾先住民族の観光村で中華料理を食べながら先住民族の踊りを楽しむという、「懐かしさ」と「これまで知らなかった台湾」が混ざった旅を満喫している。
 1980年代以降になると、日本のバブル景気を受けていよいよ国外への観光旅行が盛んになった。旅行会社への聞き取りによると、物価の安い台湾でのゴルフがメインのパック旅行、年末年始の石垣からの直行便での旅行など、個人から集団まで幅広い層に向けた多種多様なコースが設定されるようになった。しかし航空機利用の増大とともに旅行先として台湾以外の多くの国内外が旅行先として現れ、台湾に「懐かしさ」を求める旅に関する語りもこの頃から聞かれなくなる。

「故郷」の台湾へ

 2008年、有村産業のフェリーが運行停止になった。安価で大量輸送ができる船の特性を利用していた人々、特に八重山の台湾系住民への影響は少なくない。それまでは船による食材や雑貨等の輸送をはじめ、「故郷」台湾との行き来が気軽にできたのである。ここにもう一つの台湾への「旅」があった。
 台湾系住民2世の女性は、小学生だった1980年代の船旅を「無国籍で雑然とした空間」として記憶している。毎年夏休みになるといつもの船に乗り、馴染みの船員と顔を合わせる。同じ台湾系住民の子供らとその家族、「担ぎ屋」のおばさん、他の旅人らと同じ船室で過ごすひと時。次第にテレビが日本から台湾チャンネルへと変わるのを合図に、台湾が近づくことを意識する。夏休みの思い出とともに持ち帰る台湾のお土産、玩具は八重山にないものだった。しかし年を重ねるごとに船内に個室も増えて快適な船旅になると、独特な雰囲気は脱臭された。馴染みの船員も消え、仕舞いには乗客まで減ってしまった。

次の台湾へ

 定期船が停止された翌年2009年、内閣府「地方の元気再生事業」による3便のチャーター機が与那国空港から台湾の花蓮に向けて飛び立ち、笑顔とお土産を満載して帰ってきた。その利用者の一人はこう言った。「次は観光地だけじゃなくて、普通の人たちの行く店や生活も体験したい」。その後、石垣空港からも週3便の直行便が飛んでいるように、船から航空機へと台湾への「旅」の移動形態は変化してきた。しかし地理的な「近さ」に変わりはない。何度でも行って、観光だけではない自分にとっての「新たな台湾」を見つけることも可能だろう。そこからまた新たな「旅」が始まるかもしれない。

越智郁乃(おち・いくの)プロフィール
広島大学大学院総合科学研究科 研究員。広島大学大学院社会科学研究科博士課程修了。博士(学術)。専攻‥文化人類学。論文に「遺骨の移動からみた祖先観ー現代沖縄社会における墓の移動に関する一考察ー」(『沖縄民俗研究』27号、2009年)、「墓と故郷ー現代沖縄における『墓の移動』を通じてー」(『アジア社会文化研究』9号、2008年)など。


 


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