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台湾の先住民との出会いと交流

文・写真 = 宮岡真央子


 台湾には、中国大陸からの移民が到来し始める遙か以前より、太平洋や東南アジア島嶼部と文化的な共通性をもつ諸民族が多数暮らし、多彩な文化を育んできた。彼らは、今日の台湾で先住民と位置づけられ「原住民族」と総称される。人口は台湾の総人口の約2%(約51万人、2010年末現在)、現在では外来文化の影響の大きい暮らしぶりだが、伝統的な祭りや工芸など独自の文化や民族の言葉に誇りをもち、それらを次世代に継承しようとする動きも盛んだ。
 沖縄・宮古・八重山の人たちにとって、その台湾の先住民との近代における歴史的な出会いは、明治初めに起こったある不幸な出来事に端を発する。首里で税を納め帰途に就いた宮古と八重山の船が台湾に漂着し、そのうち宮古船に乗っていた54人がパイワンという当地の先住民族に殺害されたという痛ましい出来事で、日本では「台湾遭害事件」、「宮古島民遭難事件」、台湾では事件と関わったパイワンの村の漢名を冠して「牡丹社事件」(「社」は「村」の意)などと呼ばれる(以下「事件」)。当時、琉球は日本と清国の両方に帰属している状態であった。一方の台湾は、西部や北東部の平野を清国に治められてはいたものの、先住民の居住地の大半はその統治が及ばない状態にあった。
 明治4(1871)年10月18日、宮古船2隻と八重山船2隻の合計4隻の帆船がともに那覇港を出発したが難航し、無事に目的地に到着したのは宮古船1隻のみだった。途中で八重山船の1隻は行方不明となり、残り2隻が台湾に漂着した。西海岸に流れ着いた八重山船の一行は現地で無事救助された。宮古船の一行69人は11月7日に南東海岸に漂着し、3人が溺死したものの66人が台湾に上陸した。
 一行は山中を西に向かううちに、現在の屏東県牡丹郷に位置する高士仏社(現地語名‥Kuskus)というパイワンの村にたどり着き、ここで水や食料を与えられて一夜を明かした。翌日ふもとの漢民族の家に避難したが、そこで高士仏社やそれに合流した牡丹社(現地語名‥Sinvaudjan)の男たちに襲われ、54人が殺された。逃げ延びた12人は清国政府に引き渡され、西海岸に漂着した八重山船の一行とともに、翌年4月に那覇に帰り着いた。
 明治政府は清国政府に対して事件の賠償を求めたが、清国政府はその地が管轄外であることを理由に拒否し、これによって日本の台湾南部への派兵がおこなわれた。明治7(1874)年5月、3千人を超す兵士が上陸し数日間の交戦後にパイワンの村々を占領、日本と清の交渉成立後、12月に軍が撤退して事態は収束した。日本側の戦死者12人、負傷者17人、マラリア等の病死者500人超。パイワン側の死傷者数は定かでないが、少なくとも12人の首が軍によって取られたとされる。この派兵は、近代日本初の海外出兵と位置づけられ、日本史上「台湾出兵」などと呼ばれる。屏東県牡丹郷では、現在も戦場跡や遭難者の墓碑をみることができる。この一連の出来事を通じて、あいまいな位置づけだった琉球の日本への帰属は決定的となり、沖縄県の誕生が導かれた。
 この一連の出来事については、日本や台湾で幾多の議論がなされてきた。その大半は日本や清など国家の思惑や政策を論じるものであるが、琉球・沖縄史の視点からの研究も少なくない。多様な立場から研究がおこなわれてきたといえるだろう。しかし、そのなかで見過ごされてきたのが、もう一方の当事者である先住民族パイワンの立場から事件を考察するという研究である。事件以来、日本では台湾の先住民は野蛮で残忍な人びとだというイメージが広く流布した。その一方、この一連の出来事について当の先住民の声に耳を傾け、その視点に立って考えることは、これまでほとんどなかったといってよい。
 ところが1990年代後半から、パイワンの人たち自身によって研究がされ始めた。2004年には、屏東県牡丹郷で日本による派兵から130周年を記念する国際シンポジウムが開かれた。パイワン出身の郷土史研究者、華阿財氏や高加馨氏らが、台湾の中央研究院民族学研究所の黄智慧氏や沖縄大学の又吉盛清氏らとともに開催したもので、地元の人も多数参加し、関連の史跡巡りと活発な議論がおこなわれた。そしてこの翌年には、牡丹郷からの一行が沖縄と宮古を訪問した。那覇波之上の「台湾遭難者之墓」を訪れて遭難者の子孫とともに慰霊式をおこない、平良でも遭難者の子孫と面会し和解と今後の交流の意志を伝えたという。また、日本でも近年、琉球大学の大浜郁子氏や神戸市看護大学の紙村徹氏らが、パイワンによる殺害の理由について追究するなど、研究が活発化しつつある。
 以上のように、台湾の先住民と沖縄・宮古・八重山の人びととの近代における出会いは、痛ましく不幸な形で始まった。それから一世紀以上を経てようやく、パイワンの後裔は文献の渉猟、台湾や日本の研究者との交流と対話、そして村での先代からの伝承の記録と分析を通じて、従来の学説における誤謬を指摘し、この一連の出来事を自分たちの歴史として社会や子孫に伝えようと試みている。それは、長らく野蛮で残忍な民族という汚名を着せられてきた過去と向き合い、今後のあり方を模索する営みともいえるだろう。その歴史を振り返り未来を見すえるためのもう一つの方途として、遭難者の子孫をはじめとする沖縄・宮古・八重山の人びととの交流が位置づけられている。沖縄・宮古・八重山の側にとっても、近代の幕開けに先代が経験した出来事を振り返ることは、決して無意味なことではないだろう。
 過去の出来事の解釈は、それに関わった人の立場によって大きく異なる。多様な立場から多角的に眺めることで、新たな見方が生まれる。140年前の不幸な出来事を発端とする出会いをめぐって、今後も豊かな交流と対話が紡ぎだされていくことを期待したい。


 


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