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台湾から八重山にもたらされたモノ

文・写真 = 角南聡一郎


 よく知られているように、八重山のパインや水牛は台湾からもたらされたものである。台湾からもたらされたものはこれらだけではなく、日常的な物質文化も伝わっている。ここではその中でも代表的な2つを紹介してみたい。
 八重山に特徴的な農具の一つに、クルバシャー(水田整地用器具)がある。緑肥を入れる時に牛馬に引かせて田の上で転がすもので、本体はアカギヤカシ、マツなどの木を使用し、約6の縦溝を掘り、両端に金具を付け、直径30、長さ1.5m程度である。この道具が特異なのは、昭和初期頃に台湾から導入された点である。戦前八重山には、台湾からの移住者が少なからず居住し、土地を切り開き稲作をおこなった。これを契機として八重山地方で一般化していったとされる。与那国島へは昭和12、3年ごろにクルバシャーが移入されたといわれる。同じ頃に、持ち込まれたのが農耕用としての水牛である。
 台湾では、クルバシャーをラータックと呼び、多くの台湾農具がそうであるように、ラータックも中国大陸にその起源が求められる。中国では木製・石製の本体に歯のあるものはかくたく、木製で本体に溝を刻むものをろくとくとされ、八重山地方ものは南方系のラータックの系譜上にある(*1)。
 八重山で水牛はもはや農耕用に用いられておらず、水牛車に観光客を乗せてゆっくりと引くことにのみ使用されている。しかし、台湾では少し事情は異なる。筆者も台湾を訪れた際に、何度か水田で農耕用に働く現役の水牛を見かけたことがある。台湾でも農耕具の機械化が進み、水牛の活躍の場は減ったものの、未だに現役なのである。2004年に製作された台湾南部に暮らす4人の年老いた稲作農民を描いたドキュメンタリー映画『無米楽(米がなくても楽しく暮らせる)』(*2)でも、農耕に従事する水牛とそれに引かれる伝統的農具を見ることができる。台湾では未だに水牛は単なる農耕用の機動力ではなく、かつて日本の農耕用牛馬がそうであったように、家族同様の扱いを受けているのである。そして、その水牛が引く農耕具を含めて耕作をおこなう人々と一体化している。残念ながらラータックは台湾でも戦後には使用されなくなり、実際に使われている場面に出くわすことはなくなった。まだ現役のラータックを見る事ができる可能性があるのは、中国ぐらいしかないだろう。しかし、その中国も急速に発展しており、生きたラータックを探すには時間がなくなってきている。
*1 県立八重山農林高校農業史料館に所蔵されているクルバシャーの中には、砂岩製のものがある。これは与那国で使用されたものであるが、極めて稀な事例であり、一般的にはその素材は木製が定番であった。
*2 「米がなくとも楽しく暮らせるよ」という農民の諦めの境地と「米さえなければ楽ができるのだが」という意味を併せ持つ、複雑な台湾語。


▲出土考古資料のコロバシと伝世民俗資料のクルバシャー
 1水白モンショ遺跡のコロバシ、2落合彊篝廚離灰蹈丱掘3海洋文化館のクルバシャー

 八重山でもそうであったが、クルバシャーなどあまりに日常的な道具類は、機械化などにより使用されなくなると一気に姿を消していく。その結果、現存しているモノは限られてしまう。近年、台湾でもようやく、ラータックのような農具を地区の資料館にどの展示施設に収蔵し、展示しようという気運が盛り上がってきていることは喜ばしいことである。使用されることはもはやなくなったが、せめて資料として保管されることが望ましいのではなかろうか。
 もうひとつはセメント瓦である。沖縄民家の屋根の瓦といえば、陶製の赤瓦というのが定番であるが、よく観察すると中にはセメント製のものも随分と含まれていることに気づくだろう。このセメント瓦、実は台湾と深い関係にあるものなのだ。セメント瓦は別名をドイツ式瓦ともいい、第一次世界大戦後、日本がドイツより譲り受けた、中国・青島の建造物に葺かれていたものを持ち込んだという説がある。窯で焼く手間が省略できることから、大正時代以降に日本でもてはやされた。当時、日本の植民地であった台湾でも、新たな建物には好んでセメント瓦が用いられた。この頃の台湾には、八重山からをはじめとして、多くの沖縄からの移住者が生活していた。沖縄から最も近い近代都市は台北であった。移住者の中には、台湾で手に職をつけて沖縄に帰ったものもいた。昭和10(1935)年に沖縄にセメント瓦を持ち込んだ、名護「南国耐風瓦」(*3)の岸本久幸氏もその中の一人だった。セメント瓦は沖縄でも流行し、赤瓦を脅かすような存在となっていった。クルバシャーのように博物館でしか見られなくなった民具だけでなく、日時用生活で何気なく眼に入っているセメント瓦の由来にも、実は沖縄と台湾の深いつながりが隠されているのだ。
 それらの伝来の背景には、1895年以降50年間にわたり、日本が台湾を植民地としたことがある。この間にヒト、モノの行き来が頻繁におこなわれた。八重山と台湾で共通する、類似するモノはこうした往来の所産であるということを忘れてはならないだろう。そして、以上のことは、沖縄、八重山地方が本土とは異なった、外来品の玄関口でもあることを物語っている。近年、にわかにグローバリゼーションということばが流行し一般化した。しかし、八重山地方では、そのずっと前から越境がなされ、国際的な場所であったのである。

*3 一般的には台湾瓦と呼ばれていたという。

角南聡一郎(すなみ・そういちろう)プロフィール
(財)元興寺文化財研究所主任研究員。専門は民俗学、物質文化研究。著作に、『日本人の中国民具収集』(共著、2008年、風響社)、『東アジア内海世界の交流史』(共著、2008年、人文書院)など。


 


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