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つながる〈海〉、へだてる〈海〉

文・写真 = 西村一之


 台湾東海岸にツェンゴン(中国語名、成功)という町がある。町には、先住民アミと漢人が暮し、漁港があり東部有数の漁業地である。夕方、早朝から漁に出ていた船が続々と戻ってきて水揚げを行う。最近の漁業は不振だが、その光景はなかなか壮観だ。人びとが魚市場に集まり、屋台も出てにぎやかになる。また、漁港では大小様ざまな漁船を目にすることができる。なかでも特徴的なのはカジキ突棒漁の船だ。この町の突棒漁を行う漁民たちは、10月頃から吹き始める東北からの季節風を待ちわびる。短い秋が終わり季節は冬へと移り、空は厚い雲が太陽を遮り吹く風は冷たい。そして、彼らはそんな天候を「よい天気」だとする。この風がカジキを水面に呼ぶからである。この季節、町では水揚げされるカジキの大きさや数が人びとの話題となる。
 さて、この地の漁民たちは、私が日本から来たことを知ると、突棒漁という漁法は日本人が伝えた、それも沖縄から来た人たちであると説明する。そして、かつてこの町には多くの沖縄漁民が暮らしていたと口々に話す。彼らは5、60歳代が中心で、かつて町に住んでいた日本人そして沖縄の人びとを直接知る者は少ない。多くは、上の世代の人びとから伝えられたことを私に語っているのだ。
 台湾は1895年から1945年まで日本の植民地支配を受けた。統治末期の1930年代、当時、新港(しんこう)と呼ばれていたツェンゴンに漁港が作られ、日本人漁民の「移民村」が築かれた。移民の募集は、台湾総督府による公的事業であった。記録によると、移民事業によってツェンゴンにやってきた沖縄からの移民は3戸である(1937年末時点)(*1)。では、町の漁民たちが話す沖縄漁民とはこのことを指しているのだろうか。文献を読みインタビューを重ねていくと、募集に応じてやってきた移民以外に、多くの沖縄漁民がこの港を訪れていることが分かる。それも八重山・宮古地方からやってきた漁民が目につく。 当時、戦争は激しさを増し、移民村では働き手となる男性が減っていた。これを補うように、漢人や先住民アミの若い男性が漁業に参加し始めた。そして、ここに八重山の人びとも加わっていった。彼らは単身で出稼ぎに来た者ばかりでなく、家族を連れて移住するケースもあった。またそのなかには、台湾カジキ漁の中心地、ジーロン(基隆)やスゥアォ(蘇澳)から、第2、第3の移住先としてやってくる者もあった。
 1945年8月に戦争が終わり、台湾に暮らしていた日本人は徐々に引き揚げていった。そして、中華民国政府の下に入った台湾ではアメリカの援助を受けて経済復興がされた。そんな中、日本人の一部がしばらく残留し台湾の復興に従事している。この時、沖縄出身者と以外の日本人はそれぞれ「琉僑」、「日僑」と区別された。そして、台湾東海岸に暮らした沖縄漁民の一部もこの残留の対象となっている。彼らは、漁業技術を教える名目でこの地に残った。そして、沖縄漁民の中には台湾人所有の漁船に雇われ、実質的な漁撈責任者つまり船長となり、彼を中心とした沖縄漁民と台湾漁民が共に同じ船に乗って漁が行われた。


▲船の前部に取り付けられた突き台。ここに上って銛を投げ、カジキを突き取る(2010年9月6日、台湾成功の漁港で)

 現在もカジキ突棒船に乗り船長として活躍する、60歳代のカツァウさん(仮名、先住民アミ)は、戦後台湾東海岸に残っていた沖縄漁民との漁撈を経験した一人である。彼は子供の頃、琉僑としてツェンゴンに残留していた沖縄漁民の家近くに暮らし、親しく近所づき合いがあった。戦後生まれのカツァウさんは、自身の言葉(アミ語)、漢人が話す 南語、公用語の中国語、それに日本語を流ちょうに操る。特に日本語については両親が家で使うのを覚え、後に18歳からジーロンやスゥアオに渡って沖縄人船長と働いた際に習得したものである。ここで彼はカジキ突棒船に乗って主に台湾北東部から尖閣諸島周辺を漁場として通い、それは6年間にも及んだ。沖縄漁民との仕事は厳しいものであったが、彼らが持つ豊かな漁撈知識をそこで身につけもしたという。その後、カツァウさんはツェンゴンに戻り、さらに経験を積んでカジキ突棒漁船長となった。彼は、沖縄漁民と乗った経験を持つ者こそが、本格的な漁民なのだと誇らしげに自身の経験を話す。
 そんなカツァウさんは、尖閣諸島を構成する島々の様子、周辺の東シナ海の漁場の様子、これまで出会った沖縄漁民たちとのエピソードを楽しそうに話してくれる。それは、例えば尖閣諸島に至る海ではクロカワカジキが多く取れること、鳥が多く住む島に卵を取りに上陸したこと、与那国島のサトウキビ畑や建設中の飛行場が見えたこと、そして一緒に暮らし漁をした沖縄漁民との生活、尖閣諸島で船を寄せ合い親しく話しをした八重山漁民たちとの思い出である。
 現役漁民の長老格であるカツァウさんは、台湾北東部から尖閣諸島にかけての漁場の豊かさを経験的に知っている。そして、振るわない近年の漁業を憂い、かなうものなら若い人を案内しそこで魚を取りたい、かつてのように台湾東海岸の漁船が沖縄の漁船と共に操業出来るようにならないかと考えている。また、私が北隣りの花蓮県花蓮市から石垣市まで飛行機が飛んでいることを伝えると、是非訪れてみたいと話す。親戚一同連れだって、どんなふうに漁がおこなわれているのか、石垣の漁港に行って見てみたいというのだ。
 台湾東海岸と沖縄八重山との間の海、そこはカツァウさんと同世代の漁民たちにとっては、慣れし親しみがある海である一方、今国家という枠組みによって往来が制限されている海域でもある。戦前そして戦後沖縄が日本の施政下に入るまで、台湾東部と沖縄八重山の間では、人とモノとが頻繁に行き来していたことが知られている。だが、それは遠い過去の出来事となり、語られることはめったにない。しかし、そこからは海によってつながる台湾東海岸と沖縄、特に八重山との深い歴史と豊かな関係がうかがわれ、また、こうした私的な経験がこれから紡ぎ出されていく両地域の結びつきの基礎となっていることを伝えている。

西村一之(にしむら・かずゆき)プロフィール
日本女子大学人間社会学部・助教。1993年より現在まで台湾台東県成功鎮を調査地として人類学的研究を行う。


 


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