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目で見る人頭税時代

 人頭税は通常「じんとうぜい」と呼ばれ世界のあちこちにあった税制で、広辞苑には「各個人に対して頭割りに同額を課する租税。納税者の担税能力の差を顧慮しない…」とありますが、ここでは、1902年(明治35)まで宮古・八重山に課された人頭税について見てみます。ちなみに、この場合の人頭税の読み方は「にんとうぜい」が一般的で、平良勝保氏は宮古の人頭税廃止運動によって「にんとうぜい」という呼称が流布してそれが固有名詞化したとしています。
 1636年に八重山の人口調査が行われ、翌1637年から人頭税が課せられたというのがこれまでの定説でしたが、最近は人頭税の起源はもっと古く古琉球の時代までさかのぼるという説が有力のようです。
 人口調査の結果八重山の上納高は2666石余とされ頭割りで税が課せられました。当時は頭懸といわれていました。税の負担者を正頭(正人)といい、上(21〜40歳)中(41〜45歳)下(46〜50歳)下下(15〜20歳)と区分けされ、村位(各村を上、中、下、下下と区別)を加味して税がきめられました。税額は板札で告知され、人々はワラ算やカイダー字をつかって記録しました。
 女性は布で納めましたが、女性にも税を課すというのは当時きわめて珍しい例で、また、「二十日オーデーラ」などという労働力の提供もしなければなりませんでしたから人頭税時代の暮らしは大変でした。いかに過酷であったか、人舛田や久部良バリ、パイパティローマなどの伝承が私たちに語りかけます。またたとえば、明和の大津波のあと、人々はどんなふうに生きてきたのでしょう…。
 人頭税が廃止されて百年。これを機にあの時代を振り返ってみませんか。

八重山セレクト特集「目で見る人頭税時代」
八重山セレクト特集「目で見る人頭税時代」


『蔵元絵師画稿集』に見る人頭税時代  ―得能壽美―
資料提供:石垣市立八重山博物館
 八重山の人頭税時代の人々の生活については、よくわからないことが多い。しかし、それが人頭税に大きく規定されていたことは事実でしょう。それを逆手にとれば、人々の生活を描いた絵から、人頭税の痕跡を見いだすこともできるのではないか。
 紹介する絵画資料は、「八重山蔵元絵師画稿集」というもの。1975年に鎌倉芳太郎氏(石垣市名誉市民)が寄贈してくださったもので、八重山の祭や農作業、布の作製工程などがふんだんに描かれています。描いたのは、八重山の政庁であった蔵元にいた絵師で、八重山の人。その最後の絵師である宮良安宣を中心に、その叔父で師匠でもある喜友名安信らの画稿が、114点とまとまっています。
 描かれた時期は明治中期ごろとみられますが、十分、人頭税時代の様子を伝えるものと考えています。そしてまた、見方によっては、八重山のみならず、沖縄県全体の当時の様子も彷彿させる場面もあるでしょう。
八重山セレクト特集「目で見る人頭税時代」
【船出の図】
右上に2艘の船が、競争するように進んでいる。あまり風はないようだが、帆のある方が速いだろう。上の船には傘をさした人まで乗っている。両方とも「剥ぎ船」で、櫓を使っているようにみえる。上の船は貨客船、下は貨物船だろう。帆の下にある物は米俵のようにもみえる。人頭税時代には、離島から石垣島に上納物を運ぶ際などは、公用船の反帆船が使われた。百姓らの私用船はもっぱら刳舟であった。王府は山林資源の保護を理由に剥ぎ船を奨励するが、刳舟には刳舟の利便さがあって、明治期にいたるまで通耕などに刳舟が使用された。八重山という地域は、島々と海から成り立っており、その海域を今思う以上に多くの刳舟が往き来していた。
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【刈りの図】
田の稲を刈る人々。裸の男ばかりでなく、絵の右手には女性もいて、もちろん着物を着て刈り取り作業をしている。稲は束ねて、馬に背負わせている。稲の刈ったあとは見えているが、田には水があるようで、足に水の輪が描かれている。左下は、田作り小屋だろうか、男が食事の準備をしている。女性だけが被っている笠がかけられ、馬の鞍が置かれ、水甕のようなものが置かれている。マラリアを避けるために行なわれた遠距離通耕の際にも、このような小屋を建てていた。マラリアは飲料水によって感染すると考えられていたので、深読みすると、飲料水を持参したのだとみることもできる。
八重山セレクト特集「目で見る人頭税時代」
【稲の計量と稲叢づくり】
絵は下から上へと流れる。左下に稲束を担いで運ぶ人、それを置いた上にすわって順番を待つ人、大がかりな道具での計量、そしてシラ(稲叢)づくり。担ぎ棒にいくつかの稲束を下げて担ぎ、その1回分ずつを天秤棒で計量している。これで均衡が保たれているとしたら、稲束はかなり重いようだ。右上に描かれる物が稲を干す台だとすると、稲束はこれから乾燥させるのだろうか。その左ではシラをつくっている。人頭税での米は、収穫したものをシラで保存し、その保存した古米でもって上納する規則であった。村々に蔵をつくって保存したこともあったが、あまり芳しくなく、結局シラでの保存になったという経緯がある。
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【米穀収納の図】
この絵は、左上からUの字を書くようにみるようだ。まず米を俵に詰める、それを運ぶ、さらに牛・馬で運んで、計量し、帳簿につける、となるのだろう。かなり大きな升に米を入れ、棒を使って均している。たぶん、それを村内で集積したうえで、決められた日に、決められた場所に牛・馬で運んでいるのだろう。牛も馬も左右に1俵ずつ、1頭で2俵しか運んでいない。画稿集には馬車や大八車など、車輪が見えないので、運搬の効率は悪い。右下では、俵を1つずつ計量している。そして、人頭税は複雑な計算をしなくてはならない税制なので、役人たちは難しい顔をしてサンミンしている。ここに見える文書が残っていたら、と残念に思う。
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【機織女の図】
蔵元絵師画稿のなかでも有名な一コマ。若く美しい女性が、いわゆる地機という織機で布を織っているのだが、この布はかなり幅が広い。人頭税の布には、簡単にいえば上納布と御用布があり、本租から差し引かれる上納布は白上布・白中布・白下布があった。御用布は品種や数量が注文によって毎年変わっていたのだが、明治17年以降は固定化された。この当時は、その条件によっていたはずで、幅がもっとも広いのは白上布の1尺7寸、狭いものは二十桝紺縞及赤縞細上布などの1尺3寸である。当時、上納全体に対する割合は、米よりも布の方が多かった。人頭税が過酷だといわれるのは、布の上納が課せられたからだといって過言ではない。
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【布づくりの様々な場面】
布をつくる過程をランダムに描いているようだ。右上の方では布を干している。中央の上部、左よりに赤ん坊をおんぶして、布をたぐるような仕種をしている女性、その右下には物干しのようなものにつかまって布をヒラヒラとなびかせている女性、その左下には波状の線が描かれた板状の物をたたくような仕種をしている女性。絵の左下方では笠を被った女性が左右にわかれて布をのばしている。その下にゾウリをぬいですわりこみ、布をもんでいるような仕種をしている男性など、さまざまな様態が描かれている。布をのばしている2人の女性は、作業をしているというよりも、踊っているようにみえる。
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【準備された綱】
手前に雄綱と雌綱が置かれ、桟敷には詰め襟の大和役人と、カタカシラを結った八重山役人が、何となくわかれてすわりながらも、ともに同じような折をつつき、お銚子に入った酒をかわしている。その上は、桟敷の向こう側で起こっていることを、上に描いているのだろう。桟敷のものより大きな酒器(ヤシの実の徳利か)があり、そのせいか酔いがまわっているらしく、喧嘩のようなことも起きている。綱引きは豊年祭に限ったものではなく、この時期には天長節(天皇誕生日)などにも行なわれた。明治36年1月16日に催された人頭税廃止、新税法施行記念の祝賀会での綱引きも、このような風景であっただろうか。

人頭税時代野八重山上布職人の誇りを引き継ぐ  ―新垣幸子さんに聞く―

 石垣市には、1998年、現代の名工に選定された新垣幸子さんがいる。八重山上布の復元をはじめておこない、括り(ククリ)の技法を復活させたことが認められた。人頭税時代の織物を見つめ、今も復元作業をする新垣さんの工房を訪れ、上布の復元と人頭税について聞いた。

紺嶋上布との出合い

 22年前のことだ。
 「古文書にあったのは、これだったんだと思いました」
 日本民芸館に展示された八重山産の紺嶋(こんしま)上布を新垣さんが見た時のことだ。
 そこには積年の疑問の答えがあった。
 1972年以降から八重山上布を織ってきた新垣幸子さんが、ずっと不思議に感じていたこと。それは、「染料の原料が豊かな八重山で、どうして八重山上布が白地にクールの柄でしか織られていないのか。なぜもっとほかの染料が生かされていないのか。」
 もっと多彩なものが織られていたのではないか。
 やがて、新垣さんは古文書で八重山の染料植物の種類としてフクギ・アイ・ヤマモモ他などの染料が記されているのを知る。であれば…。それは確信となっていった。
 しかし、それを証明するものはなかった。
 当時は、県内博物館ではほとんど人頭税当時の括り染めの八重山上布はなかったという。
 かくして、この日本民芸館で八重山産「紺嶋上布」を見つけた時の衝撃は、いうまでもなかった。

産業化がもたらしたもの

 八重山上布が「赤嶋上布」だけでなく、地の色を染める「ククリ」の技法も使われていたことを証した紺嶋上布の存在。ではなぜこれが消えたか。
 「その背景は、大正時代の量産体制に原因があったのです」
 人頭税廃止後、産業化が進められ、それまでのククリによる紺嶋上布は、手が掛かるために敬遠されていったと思われる。捺染(ナセン)で作られる柄が主流となり、一大産業を形成していったのである。人頭税廃止の喜びの後、産業化の波の中で、伝統の技のひとつが、知らぬ間に火を消していたのだった。

人頭税の後は何?

 新垣さんが岡本太郎の著書沖縄文化論「忘れられた日本」を読んでハッとさせられたことがあるという。岡本太郎が八重山滞在中、人頭税の残酷さに理解を示すも、あまりに何度も『人頭税は大変だった』話を島人に聞かされ閉口。彼は、逆に人頭税がなくなってから「後の人はいったい何を生みだしたというのだろう。今日なおすべて美しいものは過ぎ去った思い出である」と書いた。先人の遺した労苦から、何も受け継いでいないのかということだ。新垣さんには衝撃だった。これはいけないと織物を徹底して調べ始めたという。
 「昔のモノは糸がしっかりしています。大正時代以降、経糸(たていと)が紡績になってしまってから、糸績(う)みの職人技が年々なくなっています。」
 現代では、タテ糸を紡績でおこなうのが普通になっており、手績みで作られるヨコ糸でも昔のようにしっかりしたものを作る人が少なくなっているという。
 「人頭税時代を頂点に、人の手が崩れていっているとは、10月の沖縄本島でのシンポジウムでの話ですが、八重山も同様に糸づくりの手は崩れていっています」と新垣さん。

誇りと敬虔な気持ち

 人頭税当時に作られた八重山上布を、見つめてきた新垣さんはいう。
 「あんな圧制の中で、こんな美しいモノが織れたのはどういうことだろう」それは直に織物に接する人の実感だ。「技術はもちろんだけれども、職人としての誇りがなくてはできないと、そして敬虔な気持ちで仕事をしたのではないかと思う」という。
 糸づくりから始まる染織である。織る集中力や、精神力、根気など、発揮する力は相当なものが想像される。「ただ、上からの強制で、『苦しい苦しい』だけで仕事をしたのではないわけですね」
 それではできない。
 「ものづくりとしての誇りをもっていた気がします」
 遺されている上布を見るとき、新垣さんは「私には、復元といっても、織る技術はもちろん、糸の問題など、大きな距離があります」
 昔の人が美しいものを作れた背景には、「織り手の織る事への敬虔な思いと、そこからくる暮らしと有機的に結びついていると思う」とも。
 新垣さんは現代に触れ、
 「昔に比べて技術はだんだん崩れ、また技術は再現できないモノもあるのだけれど、誇りや敬虔な姿勢といった気持ちの部分では、私たちが引き継がなくてはと思う」

人頭税時代から何を

 最近は人頭税時代が再考されている。昨年、11月のシンポジウムで御用布を織る織り子には、手間賃のような「苦労米」とよばれる手間米(てままい)が渡されていたと発表した新垣さん。しかも、仕上がり具合で3段階に決めて、渡すように決められていたという。人頭税の性格が再考されつつある。文献がほとんど王府からみた視点の人頭税から、庶民に視点をおいた形での人頭税再考がいわれはじめ、人頭税を通して何を受け継ぐかが新たな視点になってきている。

【八重山上布の2技法】

 人頭税時代の王府への上納布である八重山上布。その特質は、まず、誰もが知るところだが、織る前に糸を先に染める「先染め」の織物であること。そして、糸に染料を刷り込む捺染(ナセン)と色を染めない部分を括って染料に浸す括り(ククリ)の2種の技法がある。日本国内には植物染料による捺染染織はここにしかなく、また海晒しが22年前に復活されたばかりで、八重山の新しい風情をかもしだしている。
 ※新垣幸子さんによって復元された

[伝承]パイパティローマ伝説の村  ―通事孝作―

 波照間島の冨嘉部落の西方にヤグ村跡と伝わる集落遺跡がある。ここがパイパティローマ(南波照間)伝説に関わる村である。この村跡は、古老たちから島びとの間に、人頭税を語る村落として受け継がれ、今では多くの人の知るところとなっている。
 伝説は、ヤグ村の人たちが、首里王府の過酷な人頭税と強制労働、役人たちの私利私欲な暴圧に耐えかねて、南の楽園を求めて集団離島したという説話である。
 王府時代の古文書『八重山島年来記』順治五戊子の条に「波照間村之内平田村百姓男女四五拾人程大波照間与申南之島江欠落仕候」という記述があるが、これがパイパティローマ伝説と符合する。要するに、今から356年前の1648年に平田村の百姓40〜50人ほどが「大波照間」へ島抜けした、というのである。

 伝説では、ヤグ村のアカマリに率いられた村びとが、年貢を積んだ王府の上納船をもろとも盗んで、「南波照間」へ集団脱島したことになっている。史料と伝説が異なるのは、史料では村びとが求めた脱走先が「大波照間」、伝説では「南波照間」、村名については「平田村」と「ヤグ村」と双方に食違いがみられる。
 脱走先の「大波照間」と「南波照間」については同一であるとの見解に異論はない。だが、平田村とヤグ村は同じであろうか、ということに関しては「平田村は行政村で、ヤグ村のなかに含まれていたであろう」と両村の整合性を理解する研究者もいる。いずれにせよ、パイパティローマ伝説は、過酷といわれた人頭税を語る。
 ヤグ村は村を挙げて島抜けをしたのか、看過できないが、伝説にまつわる伝承にナビカキマスの説話がある。波照間では「ナビハキャー」といわれる。
 この説話は、アカマリをリーダーとする村びとらは、ムラピナの浜から盗んだ上納船を船出させたが、この時、一人の女性が鍋を忘れて家に戻った。アカマリらは女性の帰りを待った。しかし、長時間たっても戻らない。そこで、船は女性の帰りを待たずに出航した。その女性は船に戻る途中、田圃の近くに差し掛かったとき、船が出て行くのを見た。そこで女性は、鍋を掻きながら地団太踏んで泣き喚いた。そのことから、それ以来、女性が泣いた場所は「ナビカキマス」と言われたということである。
 伝ヤグ村跡は、土地改良区域を除外されていて、常緑広葉樹が繁茂し、ひっそりと静まり返っている。石垣はあるが、屋敷跡を示す明確な遺構の確認は難しい。しかし、村跡には井戸の跡が残っている。
 ナビカキマスと伝わる場所は、かつて水田だったといわれるが、周辺一帯は土地改良が進み、往時の面影をまったく止めていない。
 パイパティローマ伝説は、一見ロマンチックな話に聞こえるが、人頭税制下で村びとが敢行した消極的な一揆のようでもある。あるいはまた、海の遥かかなた、その向こうに神々の住む永遠の楽土ニライカナイがあると信じてきた他界観に照射するとき、パイパティローマを夢の国として想い描いたとしても不思議ではない。
 さて、ヤグ村の人たちが逃亡した地はどこであるのか。これについては、台湾の南の東方海上に浮かぶ蘭嶼とする見方が有力である。

[伝承]与那国島の伝説  ―米城惠―

体の不自由な者を直撃―人舛田の伝説

 石高に割り当てていた貢納が人頭税になると満15歳から50歳までの男性は、たとえ体が不自由な者であっても、ことごとく納税の義務を負わされることになった。
 このため、ある日、だしぬけに銅鑼や太鼓を打ち鳴らしてこれら男性を「とぅんぐだ」(人舛田)に非常召集し、遅れて入りきれなかった者を殺した、と伝えられている。
 「とぅんぐだ」は、いまは廃村となった旧島仲集落の南方にある。もとは約1町歩の天水田だったといわれているが、その後分割され、現在は約3反歩。さとうきび畑になっていて、かつてこのような惨劇があったとは思えないのどかな光景が広がっている。

岩の割れ目を跳ばさせられる妊産婦たち―「くぶらばり」

 かじき漁で知られる久部良集落の北西約500メートルに「くぶらふりし」と呼ばれる海岸線がある。この海岸の露出した岩場に、海に臨んで東西に長さ15メートル、幅が、広いところで約3.5メートル、狭いところで約1メートル、深さ約7メートルほどの割れ目がある。これが「くぶらばり」である。「ばり」は、方言で割れ目を指す。
 伝説によれば、昔、ここに島の妊産婦を集め、割れ目をこちら側から向こう側へ跳躍させ、人口の調節をはかった。納税者と収穫量の均等をはかるためだった、とみられている。
 妊産婦は無事、割れ目の向こう側へ達しても、体に衝撃を受けて堕胎の可能性が大きかった、と想像される。
 このような伝説をはらむものの、「くぶらばり」を中心とするあたりは、万座毛に匹敵する、といわれるほどの景勝地である。事実、1974(昭和49)年4月25日、県指定名勝となった。

「はいどぅなん」めざし島脱け

 大昔、南の島から陸地を求めてきた男がいました。彼は大海原にぽつんと盛り上がった「どうに」(土根)を発見し、ここに人間が住めるかどうかを確かめるため、弓矢にやどかりをくくりつけ、土根に向かって放ちました。―与那国の島建ての神話「てぃだん・どぅぐる」(陽のあたる場所)のプロローグである。数年後、やどかりが見事に繁殖しているのをみると、彼は家族をひきつれてここへ定住することになった。
 これはほんの一例だが、人々のコア(核)に、心の深層に南への志向、憧憬が根強くあった。「はいどぅなん」(南与那国)は、このような情念の原型といっていいだろう。
 人頭税の苦痛に耐えかねたとき、島の南側に位置する比川集落の一部は、さらなる南「はいどぅなん」めざして島脱けした。『与那国の歴史』(池間栄三著)は、島脱けしたのは浜川屋、兼盛屋、兼久屋、後間屋の人々であったと伝えている。もともと、比川集落は「くぶら」村を基点に、「てぃばる村」「さがむとぅ」「うだとぅ」と移住をくり返し、やっと比川で定着したのだった。海賊の侵入や暴風被害、マラリアが主な原因である。
 そこへ、人頭税の重圧が重なったのである。南の、しかも楽土を思い描くのは、人情の自然であった。
 さしば渡来の季節、夜空を南下するさしばの列に向かって、人々は火をかざしてここが与那国であることを知らせた。さしばは先祖の洗骨に行くのだ、と信心されていたのである。

[伝承]星見石と人頭税  ―黒島為一―

 満天の星空は、全ての人類に様々なことを教えた。そのなかに月の満ち欠け、あるいは植物の初咲き、動物の初鳴きよりも、星の軌道が正確に時の移り変わりを知らせるということがあった。また、星にまつわる様々な物語も生まれた。
 八重山は、沖縄の他の地域に較べ星にまつわる古謡、民話が群を抜いて多い。特に波照間は八重山のなかでも豊かである。このことは、24節気をともなう太陽太陰暦の八重山での定着が遅かったことを物語っている。
 『山陽姓系図家譜』『八重山島諸記帳』は、頭職をつとめた後の宮良親雲上長重が、立石状の星見石を1680年代から1690年代にかけて各村に立てたと記す。約5尺程の細長い琉球石灰岩だが、農耕地へ出る手前のやや小高い、わりと水の便のいい場所に立てた。東方の見晴らしがよく、農耕からの帰りに落ち合うのに都合がいい場所ということになろう。
 その石の頂点と特定の星、例えば群星(ぶりぶし)=すばる、あるいは立明星(たつあきぼし)=オリオンなどの星とを一直線に結び仰角を測定して、米、粟の播種の日取りを決めた。
 その立石状の星見石は2基現存する。そのうちの1基は、八重山農林高等学校の北、トヨタ自動車の傍にある。そこには橋が架かっているが、その立石にちなむのであろう、立石橋と名付けられている。
 後に星の観測は、方位石状の星見石と竿にとって代わられた。星のあがる方位を石に刻んだ線で確認した。竿は7尺、10尺、15尺と高くなった。高くすればするほど正確さを増したのであろう。残念ながら、その方位石状の星見石は、もとあった場所には1基も存在しない。土地改良工事で破壊寸前になっていた1基を石垣市教育委員会が保管しているのみである。
 ところで、となりの宮古島の平良市荷川取には人頭税石といわれるものが存在する。埋立てにより環境は様変わりしているものの、もともとは海辺の近くに位置した。その石は、本来、ブ・バカリ石といわれたが、その石は低い石をともなう。ただし、これらの石は道路工事によって多少ずつ移動させられている。また、同じく宮古の城辺町七又の畑のなかにも同様な石が2対存在する。これは鬼の杵(ウンヌンナック)と呼ばれる。これらの3対の立石は共通点を多く持つ。
 それは、(1)いずれも5尺ほどの細長い琉球石灰岩であること。(2)傍に、これも琉球石灰岩だが、低い石をともなうこと。(3)低い石の先端と高い石の先端がつくる仰角は、17〜18度程度であること、などである。これらの共通点は、それらの石が、天体を観測するために立てられたものであろうことを否定しない
 人の身長を計って税を課すということがあろうはずはない。そうすれば、人々は自らの身体の発達を阻害しようと試みる。それは労働力の低下を招き生産は減少し、税を賦課するどころではなくなる。
 ブ・バカリ石は、もともとプス・バカリ石、すなわち星計り石と呼ばれていたのではなかろうか。
 星は、航海に出る際、風を選ぶ目安ともなっていた。荷川取の立石は、そのために立てられたものと考えて何ら不思議はないのである。宮古では24節気をともなう太陽太陰暦が早く定着したために、その本来の機能が正しく伝えられなくなったのであろう。
 ところで、トヨタ自動車の傍の星見石も、低い石をともなっていたということを、最近聞いた。

(情報やいま2002年11月号より)

 


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