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大桝静枝先生とオルガンとバレー用具

文=米城惠
大桝静枝先生とオルガンとバレー用具

― 昭和一〇年代、比川分教場の一コマ ―
  比川分教場は昭和九(一九三四)年、集落の人々の寄付をもとに、オルガンを購入した。十月九日には学事奨励会並びにオルガンのお披露目をかねて唱歌会を催した。
  その頃、比川は小さなさびしい村だった。翌(一〇)年二月、与那国で県指定学校研究会が行われることになった。沖縄県視学・渡嘉敷緩長はじめ比嘉賀新・八重山視学、郡内の各学校から一、二名あて派遣された教員、それに与那国の教員も加わり、二日目に比川、久部良の分教場めぐりをした。渡嘉敷県視学たちが与那国馬に乗って訪れたときの行列は昔の絵物語の絵図をみるような感じがした、と四三年後、那根亨は回想している。那根は、このとき比川分教場の主任だった。
  研究会が終わると、比川は、また、元の静けさに戻った。
  四月、女子師範を出た大桝静枝(向かって右端)が赴任、尋常小一年(男六、女七)、二年(男五、女六)三年(男五、女七)、合わせて三六名の複式学級の担任である。大桝はピアノやバイオリンを弾き、テニスもできるスポーツウーマンで、書にもたけていた。
  七月、分教場創立第三五周年の記念事業の一環として跳び箱、バレー用具、シーソーなどが購入された。オルガンの買い入れも、運動用具の整備も、分教場後援会の寄付によった。
  大桝の教え子のひとり藏盛俊さん(八五)は「んだだぎ(指導用のホウライチクの鞭)を手に教室を見回った」?? ときびしい一面を記憶しているが、静枝は比川では在任およそ一年で祖納の与那国尋常小学校高等科の裁縫の先生に転任し、やがて結婚。二人の子供にも恵まれるものの、戦後、三五歳の若さで亡くなる。
  大桝家にとっては、のちに軍神と讃えられた長男・松市の戦死(昭和一八年一月一三日、二六歳)、ひめゆり学徒隊の四女・清子(昭和二〇年六月一九日頃、数え年一七歳)につづく、長女の若過ぎる死であった。
  母さんはどこぞどこぞと幼子は墓をめぐりて泣き崩れたり、ウバネ(大姉)と呼んでいた静枝の葬儀の日の模様をこう詠んだ三女・八重子は、『伸ちゃん(和伸)の姿も痛々しかったが、幼かった隆坊(和隆)には、夕方になると墓に連れて行ってくれとせがまれて、私も共に泣いて道の辻に立ったことがある』と記している(「わが父母の贈りもの 大桝家百年」)。
  話を元に戻すと、比川分教場は昭和一六(一九四一)年四月、国民学校令の施行にともない、校名を与那国国民学校比川分教場に改め、尋常科も初等科に変わって、太平洋戦争下の体制に組み込まれて行く。


 


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