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大底朝要さんのむかし語り

写真・文 はいの 晄
昔の人はだいたいの家、くり船もっていたですよ。
なんでかというと、道路がありませんでしょ…


借金を米で支払い

 ウチは古見で生まれて30あまりまでそこにいました。
  ウチの祖父が竹富から南風見に移住して(祖母は新城の人だったようですが)、父は南風見で生まれてるんですよ。その年に竹富のじいさんが亡くなって、父はカーレー(生まれかわり)と言われたらしいですよ。
  父は19歳の時に竹富に戻って何年かおって、そこから石垣に出て、浜崎旅館(おばあさんの弟の家)で使われて、一本マストで古見航海をさせられているうちに、古見の姪っ子(ウチの母)と無理やりに結婚させられたそうです。ウチの父は料亭の遊び三線上手でしたよ。トゥバラーマも歌ったですよ。新川風の。味のある声でした。
  ウチは中学校卒業してすぐ農業しました。昔は古見は米だけですよ。しかし大変でした。稲作している人はみんな苦労してますよ。500円借金して、稲を収穫したら100斤払うわけですが、(米の値段が)一番高い時は、100斤が1500円から2000円のときがあったですからね。
  稲の収穫になったら、タイトウ秤といって、棒秤をもって来たですよ。前借したのを取りに。田んぼは1年に1回。2期作はだめだったですよ。1月の田植え、6月の収穫、昔は120日でしたよ。
  黒島の人がよく古見に来た。昔、黒島ではお酒、砂糖なんかをつくっておったですよ。そしてそれを古見に売って、夏になるとその代金、米を取りに来たですよ。それから山をやる人もよく来たですね。黒島の人はほとんどがキャンギ(イヌマキ)を取りに。


金になつた材木

 お米の合い間は、金になるのは、山に入って材木切り出し。ウチの父はのんべえですからね、石垣に材木積んで行って、飲んで、そして製材所から金借りてくるんですよ。ウチが材木をやるようになって、切り出したものを持って石垣の製材所に行ったら、ウチの父の借金にとられてしまって。はい。
  木を切り出す時は、一人で山に入っていって、切って、四角に削って、牛に引かせて。一番大きいので、1尺2寸角くらい。それ以上大きいのは、胴割りするんですよ。大きいのは中に穴が開いていたりして、ほかの人と共同して、大木を倒して、四つに割ると、中の穴はなくなるよ。これも取り尽されて、あとは一本取り。イージョウ(沖縄の人はエークギーといったですよ)、キャンギ、ドゥスヌ、ユシ…、キャンギは山の奥に入らないととれない。
  私が中学校を卒業した当時は村の人口は70人あまり。その何年かあとに、移民が入ってきたですよ。昭和29年かね。あのころは学校の生徒が60人くらいになったこともあったですよ。掘立小屋をつくってよ、農業の経験の無い人が多かったですよ。製材所をつくってやっておったけど、古見は不便といって、古見と大富の間に、3耕地といっていますが(1耕地が古見の後ろ、2耕地が前良川を渡って南側)、あちらにほとんど移ったです。
  3耕地は団長の名前・城間から1文字とって城建部落と言っていました。そしてこちらも取り尽くしたといって、平久保(石垣島)の吉野に移っていったです。あれ、古見から行っているんです。古見に残ったのが、吉田さん、金城さん、宮城さん、それだけだった。


船が主な交通手段

 昔の人はだいたいの家、くり船もっていたですよ。なんでかというと、道路がありませんでしょ。古見から大原への道もなかった。高那へもない。川には橋がない。稲の収穫など、船で運ぶのが多かったですから、今の車と同じようにだいたいの家が持っていたですよ。古見の村の前の海に置いておいて。ウチの父は海をやるからサバニをもっていた。
  収穫の時は船で川から入っていって、運搬の時は担いで。夕方になると、青年は、誰の米でも担いであげたですよ。青年はまた、一年で何俵上げたといってそれを誇りにして。
  中学校のころは本校が大原ですからね、事務連絡、生徒が歩いて持っていったですよ。いま考えたら、すごいですね。大原港のこっち側にパザイ島という小さな島がありますよ。あのパザイ島に行ってよ、「オーイ、オーイ」と呼ぶと、聞いた人が迎えに来るんですよ。乗せた人は、帰りもまた乗せてくれて。今、道で手あげても誰も車に乗せてくれないのに、な。あんな時代がまた来たらいいのにな、と。
  西表東部の運動会のとき、選手は歩いて、みんなは船に乗って大原に行きましたよ。僕なんか選手でないのは荷物を積んで、漕いで、ね。


野球のユニフオーム

 子どもの頃は、朝は牛つなぎ。学校から帰ってきたら水を甕のいっぱい入れておいて、薪も割らんといかんし、まったく暇なかったですよ。
  トランプはですね、タバコの箱を切って、数字を書いて、それでトランプやっていたですよ。また、戦後は教科書が学年で1冊しかなかったです。みんな本もちたいですよね。だから、紙を集めて、本をつくったですよ。学校にカンテラもってきて。なにも物がなかった時代。
  古見は僕らが青年のころまで旧の正月でしたよ。ところが石垣は新の正月。石垣から来るヤマシャー(木こり)は新の正月だけど、旧のお正月にはヤマシャーも一緒になって正月したですよ。とう、これでは大変だから、と石垣に合わせて新の正月にしたですよ。
  ヤマシャーの船でときどき石垣に行って用事をしたですよ。石垣ではそばを食べて映画を観て、それが最高の楽しみでしたね。しかし、5年くらいも石垣に出ないときもありましたよ。石垣に出るときに洋服も買って。ウチの父なんか着けるもの何もわからんから、正月の洋服といって何を買ってきたかというと、野球のユニフォーム。まったく。あんなの着けられんといって。…アレ戻したのかね。



 


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