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電話通信の夜明け

文=通事孝作
電話通信の夜明け

 西表島の東海岸近くに浮かぶ由布島は、竹富島、黒島の住民らが琉球王府時代から昭和戦前期にかけて、西表島で稲作通耕を行うため、一時的に田小屋を造って暮らす人々たちの拠点だった。集落は一九四八年(昭和二三)頃、アジア・太平洋戦争からの引揚者のほか、自由移民よる入植者によって、段階的に形成されていった。それに時間の経過とともに、島は対岸の西表島の荒地を開拓するなかで、集落の形態を整えていった。
 島は南北に細長い、ひょうたんの型をしており、西表島とは砂地の浅瀬で繋がっている。干瀬時には、歩いて渡ることができる。古謡には人々が着物の裾をたくし上げて干瀬時を渡る様子が謡われている。今は熱帯植物園があり、観光客を乗せた水牛車がこれに替わっている。
 島の名称は、「砂州」という方言にちなんだところから付いたという。島は古い時代には、与那良川一帯の水田に通耕する竹富島、黒島の人々の寝泊まり場所だった。西表島は、マラリアの猛威に遭い、罹患者も多かったが、由布島はマラリア感染の蚊がいなかったといわれる。去る大戦中、西表島に疎開した人々はほとんどマラリアに罹ったが、由布島に避難した人々は難を逃れた。
 竹富町の昭和三十年代・四十年代は、島々に電話通信という文明の利器の恩恵を受けた時代だった。由布島に電話が入ることが本決まりになると、電話工事の請負業者が島に入島し、西表島の東部に広がる砂州に順序よく、電信柱を建てていった。住民は一日も早く工事を終わることを願い、工事を見守った。由布島より先に電話工事を終えた地域もあれば、これから工事を行う地域というふうに、次々と電話が普及していった。
 由布島の電話通信の工事は一九六六年(同四一)に始まり、そして終了したのが一九六七年(同四二)で開通式は同年三月三十一に行われた。電話開通式典の様子が当時の新聞に載っている。「電話設備は、島の住民の長年の願いで、今年度予算で総工費三千八百五十ドルを計上して完成したものである」と綴られている。
 電話開通式典には琉球電電公社の新里総裁が出席し、喜びを分かち合った。会場の由布小学校には校門の上には「歓迎・新里琉球電電公社」と大書した横断幕を掲げて出迎えた。新里総裁が直接、島を訪れたことは並々ならぬ、電話通信に対する意欲を感じさせた。
 電話通信の開通は、島の地域振興に弾みがつき、人々を喜ばせた。しかし、集落は一九七一年(同四六)に住民が対岸の西表島の「美原」移住したことで活気を失っていった。現在、島は観光化され、水牛車の行き交う島で知られる。かつて、あった村の面影は全く残っていない。


 


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