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新天地を夢見て移住

文=通事 孝作(竹富町史編纂委員)

 西表島の東方海上に双子のように寄り添う二つの島がある。上地島と下地島である。両島を合わせて新城島とよぶ。「宮古八重山両島絵図帳」の古文書に上地島を上離島、下地島を下離島として記述されている。俗に「パナリ」と呼ばれる。その語源については「近世に主島の黒島から離れて(パナリ)いるからだ」とする説と、もう一方は「上地島・下地島が僅かな距離を置いて離れて(パナリ)いるからだ」とする説の二説があって、俄かに判断しにくい。
 上地・下地の両島とも低平な隆起サンゴ礁からなり、島内は琉球石灰岩が露出している。琉球王府時代に島だけに捕獲を許され、王府に献上したザン(ジュゴン)の島、起源は不明だが、十九世紀中頃まで島で製造されていたといわれる素朴な土器かつ素焼きの「パナリ焼き」の島、それに豊年祭の時に登場する仮面仮装神の「アカマタ・クロマタ」の島として知られる。島人及び島関係者の祭りへの想いは熱い。
 沖縄は戦前、「沖縄振興十五カ年計画」を策定し、一九四一年(昭和十六)に県営自作農南風見開墾事業の推進に基づき、多く人々が西表島東部に移り住んだ。場所は大保良田。住民は新天地に夢を抱き、希望に燃えて移住したのであった。新しい集落は、事業の場所が小字の大保良田であることから、小字の名前も組み入れて、将来の夢を託し「どこまでも大きい野原」の意味を持つ「大原」と名付けた。人々は移り住むと、荒れ地を開墾し、併せて住居を建立していった。それは縦横がきれいに並んだ碁盤眼状をなし、さながら近代的な土木建築の技法を駆使したものだった。写真は当時、上地島から南風見地区への入植を記念して催した祝賀会の模様を撮ったものである。
 県営自作農南風見開墾事業が始まった年は、不幸にもアジア・太平洋戦争が勃発した年で、徐々に戦雲は急を告げていた。年を重ねるに連れて八重山にも戦争の嵐が吹き荒れつつあった。一九四四年(同十九)十月頃から四五年(同二十)の終戦までは、事業は進展せず泥沼化の状態にあった。戦争中には島民のなかにはマラリアに罹り、死亡者も出てきた。
 沖縄本島は敗戦により、米軍の直接統治下に陥り、県庁も廃止。八重山には戦後一時、自治政府も作られた。「沖縄振興十五カ年計画」は、途中で中断され、数多くの人々が生まれ島へ舞い戻った。夢半ばにしての挫折を味わった。ショックは大きかった。それから数年後、マラリア撲滅後に再度、西表島東部への移住となった。
 上地・下地両島の人口は、西表東部への移住もあり戦後に激減。下地島は一九六三年(同三八)に無人島となり、その牧場が整備された。上地島は、上地小中学校がしばらく存続したのち、中学校は大原中学校に統合された。しかし、上地小学校は一九七五年(同五十)に過疎化の荒波を受けて廃校となった。


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