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トップ  >  はいの晄の八重山  >  知念朝甚さんのむかし語り|はいの晄の八重山

知念朝甚さんのむかし語り

写真・文 はいの 晄
「おお、知念のタバシラー(怠け者)がまたギターをもって行くさ」とかよく言われたよ。


父と長兄が戦死

   もともと私の親はね、宮古の多良間村の水納島という小さい島から来たんです。細崎(むかしはクバンザキと言っていましたよ)に大きな鰹工場があって、そこに出稼ぎに来たみたいですね。だんだん小浜島に慣れて、私は次男で、ここで生まれたんですが、長男が5歳の頃に、母も一緒にここに引っ越してきたと聞かされています、はい。細崎には住まずに、今のこの場所(北部落)に住むようになったらしいですね。
 貧乏暮らしですよ。私の親父はずーっとウミンチュウ(漁師)だったんです。2、3名共同でサバニをもって海をやっていました。ウミンチュウをしながら畑を耕して、お芋をつくって、なんとか食べていましたよ。
 学校を卒業してすぐに兵隊に志願して1年は石垣島で生活したけど、あとはずっとこっち(小浜島)。バンナ山で1か月くらい訓練を受けて、僕は宮良の部隊(幕田隊)に配属されたさ。特攻艇が出るときは、夜中から暁ごろ、みんな集まってよ、水盃をやっていたけど、僕ら志願兵はただ見ているだけ。空襲が始まったら、いつも御嶽の木の下で遊んでいた。戦争があと1年長引けば僕らの命もどうなっていたかわからんね。
 戦争が終って島に帰ったら、親父は白保の部隊で戦死、長男兄さんも戦死。母と、弟・妹たちと芋を掘ったり、潮干狩りに行ったり、夢中で海山から食べるものを探しておったという状態ですよ。食べるのに精一杯で、大変な貧乏暮らしですよ 。


友愛クラブの活動

   他所の田んぼを借りて米をつくってね、それでなんとか生活をしておった。あのころは小浜島は食糧難ではあったけど戦争から戻ってきた人も多くてにぎやかだった。だんだん私も同じ年頃の人たちと友達になってさ、夜は部落の道の角ぐぁなんかに5、6名集まってユンタク(おしゃべり)して、そのときの話といえば食べるものの話ばっかり。
そうしているうちに、私はたまりかねて、何か面白いことをやろうじゃないかと言ったんです。それが音楽だったんですよ。寝ながら考えた。我々のグループはどういう名前にするか。そして出てきたのが「友愛クラブ」。はい、我々の名前は友愛クラブとつけよう、と。それから活動したわけですよ。あのころ女も男も合わしたら30名、40名おったよ。当時は私もちょっと巾は広かったわけさ。夕方になったら下駄をガバラガバラ鳴らして履いてさ、ギターを持って遊びに出る。「おお、知念のタバシラー(怠け者)がまたギターをもって行くさ」とかよく言われたよ。先輩たちに頼んだら、「ああ、一番座あいているから使いなさい」。で、民家を貸してもらって、みんな集めて、そこで練習やりました。
 三線、笛、太鼓…、めいめい得意な楽器をもってきた。私のギターは、海で拾った壊れたギターを、見よう見まねで3分板張って、両側はトタンを張ってさ、弦は針金でつくって、そして鳴らしたさ。
 集会場というのはないから、校長にお願いして学校を借りて、土曜・日曜を利用してやりました。演劇とかもやりましたよ。5、6回はやったんじゃないかな。やるからには本物みたいにやろうと言ってさ、お芋に「友」という字を彫って、それを紙に押してそれが入場券。
 そして、あるとき黒島に遠征をしようという話になった。それで、私が代表ですから、区長のところに行って、相談をした。そしたら、「朝甚、大変だよ、黒島はいま食糧難で大変だよ。迷惑になるから行くな」と。今、80も過ぎて振り返ってみると、突破すればよかったなあと思うね。黒島の人を慰安できたと思うさ。


一番の楽しみだった歌

   その当時は、自分で言うのもなんだけど、私は歌がうまかったさ。集まるごとに、みんなにね「歌をうたえ」とよく言われた。小浜出身の黒島さんという方が新聞社につとめておられて、「八重山で最初ののど自慢大会がある。朝甚、あんた歌うまいから出るか」と言われて、「出る」と答えたらあの人が申し込んでくれて、見事に三点鐘もらった。石垣島の(中央)市場が会場で、あのころの市場は露天だった。
 流しもやりましたよ。音楽のつながりで石垣にも友達ができて、友達がギターを弾いて私が歌って、石垣の昔の護岸通りを歌をうたいながら歩いたりした。石垣に行ったら必ずレコードを買って帰るとか、何か歌を覚えてくるとかね、そしてみんなに教えて、みんなでやって、あのころの離島は、こういうものが一番の楽しみであったよ。
結婚して2、3年ごろまではよく歌っていましたよ。
 結婚? 島に嫁いだ姉さんを訪ねてコレ(奥さんの京子さん)がちょいちょい遊びにきたわけさ。見たら、急に好きになったんでないかなあ(笑)。あの当時、私はサバニをもっていたから、竹富の西桟橋につけて、結婚のお願いに行った。
(京子: 5、6回は通っているね。ウチのお父さんは、1年間は家庭修養させるからこんなに毎日来ないでいいと言うんだけど、サバニをもっているから、つづけて毎日のように来たんですよ。…あれから、結婚して、大事にしてくれましたよ、はい。小さい長男、長女をばあちゃんに預けて、ギター持って、ほら、学校に式台がありますでしょ、あれに座ってギターを弾いてもらって、私が歌をうたったりしました。一本松のところにも行ったりして、帰ってきたら二人の子どもは泣いていたけど、ばあちゃんは怒らなかった。よくそうして遊んだんですよ。寂しくさせないようにと考えたんでないかね。)
 親がよろしいと言ったから、ロープで括って連れてきた(笑)。しかし私が結婚したときには(結婚、遅かったからね)ほとんどの友達はもう結婚していて、友愛クラブはバラバラになっていたんですよ。
 去年の「ちゅらさん祭り」で昔の友愛クラブを復活させてくれとお願いされたんですよ。あのころ一緒の人は多くが亡くなってしまっているので、新しいメンバーを集めてやりましたけどね。もう歌いきれないから、私は指揮をやった。しかし60年ぶりに舞台に出るのは気持ちよかったさあ。はい。



 


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