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トップ  >  はいの晄の八重山  >  昔語り 竹富島 ユイマールの精神 赤山喜介さん|はいの晄の八重山

昔語り 竹富島 ユイマールの精神 赤山喜介さん

写真・文 はいの 晄


「はい、行きましょう」と、あんなだからね。非常に頼み甲斐もあるし、気持ちよかったよ。

両親の世話

 高等科を卒業して1年くらいはお父さんの手伝いして畑に行っていた。友達が来い来いというから台湾に行った。あのときは湖南丸、湖北丸という船があって、1週間に1度、ひとつは台湾に行く、ひとつは那覇に行ったよ。台湾までの運賃6円。あのころの6円といったらたいしたものだったよ。1円で素麺箱1箱買えたはずよ。
台北の鉄道部に試験があるからというので、友達と3人で行ったさ。3人とも合格して、そこで鉄道員の黒い服もらって、あのふたりは高雄、僕一人は台南。台南の部隊で(兄の)石吉が馬の調教師やっておったよ。線路のすぐ向こうが部隊だった。
 台湾鉄道部に3か年ぐらいおって…、あのころ、お父さんお母さんが台北病院で入院していてよ、石吉が島に連れて帰って見てくれれということさ。私が島に連れて帰った。
昭和14年の暮れごろ島に帰ってきて、東部落の青年会長もやっておったけど、根原に嫁いでいたフジ姉さんとお父さんお母さんの病気の世話をずっとやっておったさ。だけど、16年の1月にお父さんが亡くなって、6月にお母さんが亡くなって、私は7月に兵隊に入隊だったのよ。四十九日も終らないうちによ。二人亡くなったら、ミータビ(3度目の旅)があるということでよ、じいさんたちが(身代わりの)鳥を潰すのを見とったよ。
あのときは施設とも無い。ぜんぶ自分の手でが、体拭くのから、ご飯から、ね。みーんなやったよ。寝たっきりの人見たらみんな逃げてが行くもんね、今の子どもたちは。
お父さんとお母さんの後始末、子どもながらあんなにやっておるから、俺ら親孝行したから百歳間違いないよ、とフジ姉さんとふたりで言うておったよ。フジ姉さんも百歳まで生きたから、お父さんたちはやっぱり守っておられるなあと思っておるよ。やっぱり親のことすれば無駄ではないねえ、と。誰にも言いはしないけどね。


ビルマ戦線へ

 お父さんお母さん弔って、僕は兵隊に行った。久留米の部隊で3か月鍛えられて、すぐに支那(中国)にわたって、上海から1か月間ずーっと船に乗って、12月8日宣戦布告と同時に、僕らはスマトラ、ボルネオ、あのあたりに行って、すぐシンガポール作戦にかかったのよ。もう大変さ。向こうでは死ぬか生きるか。
マレー半島からビルマに入ったのよ。ビルマでは酷いさもう。アガヤヨー。ビルマでは5年間おったもんね。戦争ばっかりさ。家の中にも入らん。着たまま。雨が降れば濡れる、日が照れば乾いて、上着を脱ごうとすると脱脂綿がいーっぱい体に着いて(笑)、剥がれないくらいさ。服には白ーい虱がいっぱいおるわけよ、あんなしても人間よく生きたねーと。あのころは脚気とマラリアでがみんなやられておるよ。
18年までは勝ちいくさでどんどん進んでおったんですよね。やがて僕らインド国境まで行ったんですがね、そこでの戦闘は2日間、大変だったですよ。こっちは田んぼの広ーい所に散らばって、山から一晩中弾を受けるけども、ぜんぜん戦闘開始とは言わない。弾を浴びるだけ。ちょうどおぼろ月夜だったよ。赤いのが頭の上こんなに飛んでいるけど、これでも当らないでよーく生きたなあと思うけど、朝見たら、ゴロゴロ死んでおるのよ。
はやく日本も撃たさんのかーと言っていたら、午後1時になってから戦闘開始になったのよ。さあ、山に入ってもあっちこっちから弾が来る。やっと夕方、薄暗くなる頃に(敵が)引いて行った。さあさあ敵は引いたぞ、敵は引いたぞーっとやるうちにが、地雷を全部埋めてあるのよね。私の両隣の人は吹き飛ばされた。あんなひどい目にもあったんだけど、よーく助かったなあと思ってね。
 沖縄が敵前上陸されたと聞いたときに、ああ、負けだよ、止めれこの戦争、撃ち殺せこの将校ら、と兵隊はぐずぐず怒っておったさ。大本営からの通知は、これは、沖縄に敵前上陸させたのは袋の鼠にするためだ、と。すぐ叩き潰す、というふうな宣伝をやっておったけど、あんなに負けておるのにな。


捕虜から帰還

 1年間は捕虜としてビルマにおった。僕らは山に連れて行かれて石割りだよ。アメリカのやることは大変だよ。大きな機械を何十台と持って行って、ダダダーと石を割る。僕らはマスクかけて真っ白になって、1年間。とう、こっちでが死ぬさ、と思ったさ。
 乾燥野菜など、もうすごくいいのよね、1斗缶に入って。どんなか? と聞くから、わざと「美味しくないよ」と言ったら、「冗談言うな、日本の捕虜になっていたアメリカ人は塩さえも舐めさせなかったという話だよ。あんたら幸福だよ」と、あれら、あんなにが言うとったよ。
 アメリカとかイギリスはえらいよ。日本はすぐに叩きがやるだろ、兵隊の頃はほんとに顎が外れるくらい叩かれたけども、僕ら負けてあと、アメリカの将校連中がやるのを見たらよ、将校が模範を示してね、いやいやこうではない、こうやりなさいと教えているよ。へえ、日本だったら叩き潰しているねと僕ら見ておったよ(笑)。
 ラングーンから船に乗せられたけど、その前に一人ひとりチェックしてよ、はい、お前は船に行け、はい、お前は車に乗れ、と。ちゃーんと調べてあるんだよ。車に乗せられたのは殺されたんだろうねと思っておるけど、かわいそうにねえ。
 船は遅いし、何日もかかって、沖縄の東を通るときは、「沖縄に対して黙祷しなさい」と。「ここで相当の人が犠牲になっておる」と。黙祷して行ったらが、今度は広島・呉の軍港に入ったんですよ。援護局に連れて行かれて、そこに収容された。原子爆弾の落ちた所を見せようと連れて行かれたけど、ほんとに焼け野原で何んにもなかった。いやあ、大変だなあと思った。よくもあんな大きな国に向かって戦争やったんだねと思ってよ。


ヤスの「てーどぅん食堂」

 戦争から帰ってきたとき私は30になっていました。そのとき(妻の)ヤスは台湾から引き揚げて部落の幹事として働いていたのよ。種子取祭のときに、給仕やっているさね。あのときは煙草盆に火を入れて、煙草盆でが煙草も吸ったのよ。僕も手伝いで出ていたので、ヤスが「火、入れてちょうだい」と持ってきたりしてね。
 ひとつ年下で、学校時代は見ているけども、台湾に行って年頃になっているから、私も「きれいな人だなあ」と思っておったよ。新井のおじさんと石吉が私をこっち(赤山家)の婿養子にと相談してよ、「赤山のじいさんは農業をして甕には麦やら豆やら、畑には芋やらがたくさんあるから心配ない、あんたは鞍をかけた馬に乗るのと同じだから赤山に行きなさい」とだんだん攻められて、いっしょになったさ。
 僕らはアニナーヨイ(結婚式)はやらんよ。布団だけひょいと持ってきたら終わりだった。何も無い。こっちの仏壇、あっちの仏壇に願ったら終わりさ。アニナードードーといって、昔はちゃんと提灯もつけて、きれいな着物つけて行列したという話はあったけど、僕らのときはなかったよ。
 小さい頃に、高島易断というのが来ておったんだよね、お箸のようなものをダーってやって、僕の頭を触って、「この子どもは元祖継ぐ人だねえ」と。やっぱりこっちの元祖を継ぐ人になっているよ。
(ヤスは)とっても優しくて上品でね、思いやりのある人だったけど、子どもを7人産んで、54で死んで無い。末っ子は小学校5年だったのに。あんなに早く死んでねえ。
 私は、石吉らが船をつくったから、船に乗っておったんだよ。機関士の免許とって。そのとき、観光客が話しているのを聞いたのよ。「島には食堂もないし…」と。家に帰って、ヤスに「でぃ、食堂やろう」と。トタン屋根の「てーどぅん食堂」をつくった。昭和43年。
 あの頃はカキ氷も手回しでつくった。食堂は1軒しかないから、夏などはカキ氷食う人が向こうまでずーっと並んでおったって。カキ氷をつくり、そばをつくり、じいさんばあさんは病気でおられるから、ひとりでアレやりコレやり、私は夜にならないと帰らないから、大変だったんでしょう。…あれから40年だねえ、もう。


ユイマール精神

 昔のことを思い出すと、あの頃のユイマールの精神というのは、今考えてみるとほんとにすばらしかったねえ。畑を開墾するのもユイマール。「はい今日はあんたの畑だ」と言ってね、みんな鍬、鎌から持って行って(あのころギンネムなかったよ)、茅がいっぱい被っているさ、あの茅をぜんぶ剃って除けて、どんどん鍬で開墾して、すごかったよねえ。ほんとに。それで金払うわけでもないしね、
 家つくるのでもそう。あのころは茅葺だったからね、茅とりにもみーんなで。みんなお願いしたら、イヤと断る人なんかいなかったよ。忙しいよと言う人おらん。何にも惜しまずに「はい、行きましょう」と、あんなだからね。非常に頼み甲斐もあるし、気持ちよかったよ。ほんとに思いやりがあったね。
 お祝いが近づくとね、親戚集まって、「はい、あんたは人頼む人」、「はい、あんた何する人」と分担もしてが取り掛かる。薪なんかは早くやらんといかん。半年前から西表の山に薪取りに行く。お酒も自分でが準備したのよ。粟を蒸して麹つくってよ、酒屋に持って行って蒸留してもらって、山に材木切りに行くときは1斗甕の2本くらい持って行ったよ。木を切って、晩はブガリノーシ(慰労会)よ。
 薪を船一杯積んできて、西桟橋から牛車に薪を乗せてきて、庭におろして、これを割るのは部落の若いシンカにお願いした。「じいさんのお祝いも近いので、薪を割るの手伝ってください」と。そしたら、はい、はいと来るんだよ。喜んで来るさ。斧から鋸から持ってきて、こんだけ積んであった薪は切ったり割ったりやって、もう、2時間くらいで全部片付けたさね。これを屋敷のなかに積んで、「とう、これが乾燥する頃にはヨイ(お祝い)はやるから、そのときはお願いねえ」と言ってね。お粥とちょっとしたイルッチャナー(炒め物)をあげたりしてよ。


祝いのご馳走

 あのときは人生50年だからね、60のばあさんといったら腰曲がって杖突いてが歩いたよ。あんなに変わるねえ。だから61の還暦、73のお祝いは盛大にやったよ。ショーニンヨイ(生年祝い)の時にはよ、豚もめいめい養っているからよ、それも潰して。
 豚を潰すときは、殺す人を頼んできてよ、両足括って喉を裂いてが血も取って、大きな鍋いっぱいお湯を沸かして、熱い湯をずっとかけないと毛がとれないのよ。お湯をかけて毛を取ると、キレイに真っ白になるよ。解剖して、臓物だけは海に洗いにいくさな。殺す専門がおった。免許とないさ。
 お米も何俵と準備して、野菜、小豆、もち米、うずら豆なんかたくさん用意して、魚やタコを取る人は、「はい、あんたはイシュヒトゥ(魚をとる人)」と言ってよ、船で嘉弥真島あたりに行ってね、さあ、魚いっぱいとってくるさ。豆腐なんか、「自分もひと箱、自分もひと箱」と家ごとから来るのよ、自分で作ってもってくるのよ。金は無いでも、みんなで助け合うからお祝いができたのよ。
 あのとき家も茅葺だったから、ずーっとテントを張ってよ、朝10時ごろ、ばあさん連中を呼ぶ、1時ごろはじいさん連中を呼ぶ、夜は役職の人など有志を呼ぶ、3回、4回と分けてやったよ。あの頃は道具というのもそんなにたくさんないから。30人、40人ずつ、時間でよ。
 お祝いのご馳走はたいへんだったさね、あの頃はよ。お膳には、大皿、刺身、イルッチャー、寒天…。
 吸物は、何回もあるのよ、一番最初にお膳に載せるのは、お雑煮みたいにお餅を二つ、大根、にんじん、豚肉、かまぼこ、その上にこんぶを花結びしてパッと置いてよ。二番目には三枚肉の吸物。赤味噌でが一晩中炊くのよ、そしたらもう、全部油っけはなくなってよ、いい味になるさ。これを洗って味噌を落として、汁かけて、下に落花生でも2、3個入れてよ。
 一、二番はだいたいこのように決まっていたけど、三番目はもう自由形。お魚を揚げて吸物つくっているところもあるし、素麺をおいしくやって焼いた卵を切ってパッと散らしてあるところもあるし、案内受けてる人は吸物だけでも腹いっぱいになるよ。
 大皿に盛るのは、豆腐、てんぷら、ハーマミヌカン(小豆の羊かん)、ヨーヨー餅、豚肉、かまぼこ…。ロースは蒸してよ、それに卵の黄身を塗って焼いたら黄色くなって、それを丸く切って大皿に盛るのよ。キレイよ。これがいちばんのご馳走でしょうね。これは晩の偉い人に出されたよ。みんなの分はないからね。
 子どもたちは空の重箱を持ってがお父さんの後を追って行ったのよ。子どもはあれが楽しみよね。あのころ食うものないから、重箱にもらったご馳走を、家族が10人いたら、10分の1に小さく切ってが、はいはいと渡して、あれの大きいよ、と喧嘩になったりしてね(笑)。



 


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