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トップ  >  コラムちゃんぷる〜  >  与那国島  >  昭和九年四月九日|与那国島コラムちゃんぷる〜

昭和九年四月九日

文=米城惠
金をかせぐカイコ

― 井野二二 代県知事、与那国を訪れる ―

 井野次郎が二二代沖縄県知事に赴任したとき、日本にもアメリカに端を発した世界恐慌が波及し、東北では「娘の身売り」、沖縄では「ソテツ地獄」と呼ばれる事態があらわれていた。
 崩壊にひんした産業経済を前に、井野は就任の一九三〇(昭和五)年の十月から救済のプランを練り、翌三一年には「沖縄県振興一五ヵ年計画」をまとめた。
 これは県と国による、初の沖縄の経済・社会振興計画で、この計画は、沖縄の窮状を打開しようとする彼の熱意とねばりに応えて、内務省が閣議上程し、三三(昭和八)年から実施される運びとなった。
 彼が与那国を訪れたのは、三四(昭和九)年四月九日。沖縄の経済立て直しが始まって、二年目を迎えていた。
 その頃の与那国をみてみると、たとえば鰹節製造業は戦前の絶頂期にあったといってよい。特に発田貞彦は久部良に製氷工場を具備する近代的鰹節工場を設立、工場は「東洋一」とたたえられるほどだった。漁船二三隻、漁民百五十人、工場従業員五十人を擁し、年産額は二〇万円に達していた。台湾との国境線は消えて久しく、鰹節は石垣、基隆経由で大阪の商社に送られるのだった。また、祖納の波多港からは月に二、三回、船が台湾へ行くごとに七、八〇頭の肉豚が移出されていた。
 与那国での井野の足跡をしるした資料はいまのところみつかっていない。歴史研究家の野々村孝男さんが遺族から入手した与那国での一連の写真をみると、井野は、まず、久部良に着き、上陸前に港口で船に日の丸や大漁旗をひるがえした発田をはじめ、村の有力者の万歳三唱に迎えられた。次いで与那国馬にまたがり、島内を視察する。帰りは祖納の波多港から船で沖待ちをしていた大阪商船の湖南丸に乗り移った。その湖南丸を発田の飾りつけた日向丸など、与那国の漁船の多くが見送った。
 翌三五(昭和一〇)年、発田は鰹の漁獲高が日本一に。その功績で「キング賞」(キング社主催)を受賞する。
 一方、井野は、その年の六月に、四年一一ヵ月の任期を終えて、沖縄から東北の宮城県知事に転じた。沖縄での実績を買われ、東北の経済復興のため起用されたものだった、という。
 その後、戦時体制が強まり、一五ヵ年計画は、中途で立ち消えになった。
 そして太平洋戦争の末期、四四(昭和一九)年十月一三日午後三時、米機動部隊艦載機が久部良の空襲で真っ先に標的にしたのは、発田の鰹節工場と煙突、および関連施設であった。


 


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