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旅先なのにさびしくない

文=米城惠
旅先なのにさびしくない

― 台北の街は「どぅなんとぅ」がいっぱい ―

 与那国では、一九二〇年代から台湾との取引が盛んに行われるようになった。台湾と与那国のあいだの国境線が消えて三〇年に近く、海は第一、第二漁音丸(田村春馬・所有)、帆安丸(村営船)、金栄丸(蓋盛常介・所有)、日向丸(発田貞彦・所有)など、個人経営の発動機船の活躍の場となっていた。いずれも三〇トンクラスの小型船である。
 二一(大正一〇)年の調べによると、与那国の移出総額十一万七千七百二十三円に対し、移入は五万四千七百五円である。大幅な移出超過である。
 与那国から台湾へ移出されるのは主に、肉豚、鰹節、黒糖、それに鮮魚であったが、その鰹節を台北でほとんど一手に、といっていいほど仕入れていたのが、 小野原・台北支店である。少し説明すると、小野原支店は、現代風にいえば商社機能と販売機能をあわせ持つ百貨店である。本店は長崎にあった。日用雑貨を手広く扱い精米所も台北市内に二、三ヶ所、所有していた。
 波平ヒデさんは、ここに、一九二三(大正一二)年から一九三〇(昭和五)年までの七年間勤めた。鰹節販売コーナーの主任としてであった。波平さんはわたしが取材した九五(平成七)年当時、八九歳と高齢だったが、那覇のお住まいで
「ほぉ、どぅなんとぅ、まんでぃぶい」(与那国の方々が、そりゃ大勢いらっしゃいましてね)と、波平さんは「あなたの台北でのお仕事や暮らしはどのようなものでしたか」という問いに対して、ちょっと思い出の糸をたぐるかのように間をおいてのち「旅先なのに、さびしいとは、一度も思いませんでしたよ」と答えた。よほど与那国出身者が働いていたらしい。
 …その時分、支店には四、五〇人の従業員がいてにぎやかでした。与那国出身者も、私の他に藤田タマさん、宮里キクノさん(炊事係)、崎原三郎さん、新嵩新一さんなど、一緒に働いていました。崎原さんは番頭でしたが、忙しいときは配達を手伝うときもありました。
 盆や正月が近づくと、鰹節を御中元、御歳暮用に削り直して包装する。その「削り」を請蔵マイツさんに手伝ってもらっていたんですよ、ね。
 この請蔵さんも知り合いの「どぅなんとぅ」であった。


>米城惠著『よみがえるドゥナン』
>与那国島の特産品・おみやげ・本

 


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