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与中生たちの修学旅行

文=米城惠

― コースにいつも那根校長の家 ―

 那根亨(明治三六/1903年――平成二/1990年)は、西表島祖納の人だが、与那国に縁の深い教育者であった。
 赴任先をふりかえってみても、戦前の昭和九年九月、比川分教場に赴いたのを皮切りに、戦争中は久部良国民学校長、そして戦後は初代・与那国中学校長、第五代・与那国中学校長を歴任、最後に与那国を離れたのは、昭和三二(一九五七)年であった。
 写真は、その一年前の、修学旅行中のスナップである。前列、向かって右から四人目が那根校長、次が若き日の伊良皆高吉先生である。
 そのころ――というのは、生徒がわたしの一、二年後輩で、ほとんど同時代を共有しているからだが、修学旅行のメインは石垣であった。当時も今も八重山群島の中心地で、幼いこころを踊り上がらせるにじゅうぶんだったが、往き帰りの船は一五、六トンの貨客船、一三、四時間もかかった。港の水深が浅いため、波多の港から沖へ出るとき、船の底板が珊瑚礁にこすれて、グスーッと不気味な音がしたのを、いまでも覚えている。東崎付近をはずれると、船はたちまち大揺れとなった。「うぶとぅ」(大渡)にはいったしるしである。そこから船が西表と鳩間の島陰に抱かれるまで、わたしは嘔き気、吐く――のくり返しであった。
 石垣、竹富島の見学を終えた一行は、西表祖納に向かう。そこに那根校長の生家があった。校長の心づかいが感じられた。
 宿泊先は、西表小学校である。地元の婦人会やPTA関係者が筵を提供、あるいは炊き出しなどの世話にあたった。生徒たちは、訪れた那根家で、玄関脇のザボンに目を見張った。それは屋根よりも高かった。生徒たちは、見上げたり、幹をさわったりしながら、声をあげてはしゃいだ。おみやげに芭蕉の葉餅が一人ひとりに手渡された。
 伊良皆先生は、のちに沖縄県議会議長にもなったが、当時は一年A組の担任。一九歳と若く、「弟妹みたいな子どもたちとはすぐ仲良しに」なった。
 だが、仮免教員だったため、翌昭和三二年の正月明けに那覇に出て、琉球大学で講習を受け、与那国へ帰る途中の一八日、あの多数の犠牲者を出した祐清丸遭難事件を体験するのである。深夜の海上を漂流すること一三時間――彼は救助され、九死に一生を得る。
 海難審判は、祐清丸沈没の原因は船底の破損とそこからの浸水によるもの――と明らかにした。
 那根校長の郷里である祖納で一泊した生徒たちは、歩いて白浜港に着き、そこに待機している船に乗り、与那国へ向かうのだった。


>米城惠著『よみがえるドゥナン』
>与那国島の特産品・おみやげ・本

 


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