石垣島を中心に八重山諸島全域の観光・旅行・イベント・ニュース・伝統行事など八重山にこだわった地域密着型情報を日本最南端の出版社「南山舎」がお届けします!

やいまねっと

やいまねっとメニュー
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失
無料ユーザー登録
サイト内検索
南山舎の本

月刊やいま年間定期購読
島の手仕事第14回パピルス賞受賞!
南山舎やいま文化大賞
八重山を読む メニュー
話題チャンプルー
八重山手帳2017
やえやまガイドブック
やいまねっとに広告を掲載しませんか?
自費出版のご案内

トップ  >  コラムちゃんぷる〜  >  与那国島  >  昭和20年10月|与那国島コラムちゃんぷる〜

昭和20年10月

文=米城惠

― 米調査部隊が武器接収へ ―

 ものごころついたとき、わたしは「だまさてぃ」(山崎)の避難小屋にいた。民謡「とぅぐるだき・でぃらば」にもうたわれている「いしゃらやま」(石原山)につらなる西の先端の森林である。
 昭和一九(一九四四)年から二〇(一九四五)年にかけ、与那国島も米、英艦載機の空襲、機銃掃射が激しくなった。日本軍の不時着用飛行場から南に数百メートルしか離れていないわが家の避難場所は、危険度を増していた。空襲となると父はわたしを背負い、長兄、次兄、母とつづいて森林の中を、一路、ガマ(洞穴)をめざす。あたりをパラパラと機銃掃射の音がみたしていた。
 八月一五日は、そんな日々の緊張を解き放った。だが、ほとんどの家族はマラリアなどの病人をかかえ、各自の家へ帰るのも容易でなかったようだ。
 こんな状況のなか、スミス大佐の指揮する米調査部隊が与那国に歩をしるした。波多港の港外に停泊したリバティからまず水陸両用の戦車が二台あらわれ、次に頭だけ出すようになっているインバネス風の外套をきた米兵たちが続いた。戦車は防波堤と大離れのあいだを通り抜け、まっすぐ仲嵩鰹節工場の下の波多浜に上陸、米兵たちも一人ひとり外套をぬぎすて砂浜にあがる。それを波多浜近くの家でみていた池間苗は「大変だ、逃げろ」と内道に走り、避難先の雨石のガマにはいった。そして、ガマの入り口に立ってみると、米兵たちは四名、あるいは六名と隊をくんで十山神社の方から歩いているのがみえた。ジープも走って、十山橋の方まできた。与那国国民学校の訓導・大舛八重子(現・黒島)は、この日、
 遠巻きに米兵とふを見てあり ぬ百姓女に身をやつしゐて
 と詠んだ。畏怖と緊張感が、一首を貫いている。詞書きに「昭和二〇・一〇 武器接収の日、米兵は若い女を拉致するとの噂が流れていた。」
 スミス大佐ら調査部隊は祖納集落を通り抜け、須原にあった日本軍の守備隊本部で守谷秋蔵・隊長を尋問、おそらく武装解除も行われた。もっとも、米兵の一部は民家に入り、アメリカ製の煙草を出して「ハチャ、ハチャ」といった。日の丸の旗と交換したいという申し出だったが、意味がわかったのはのちのことで出されたのはお茶であった。
 ふりかえって、与那国の人びとがもう戦争は終わった、大丈夫だ、と安心したのは、米兵に接したこの日を境にしてだった、と思う。
 避難先から祖納へ帰る日、父はわたしを肩車にした。波多浜の護岸あたりを通るとき、兼久の地名にふさわしく父は砂に足をめり込ませながら歩いた。砂の反射がまぶしかった。家に帰ると、庭の福木の幹に穴があき、防空壕は崩落していた。機銃掃射や直撃弾によるものだった。「ここにいたら、助からなかったなぁ」と父はつぶやいた。


>米城惠著『よみがえるドゥナン』
>与那国島の特産品・おみやげ・本

 


運営会社情報個人情報保護方針サイトポリシーお問合せバナー広告について
 
Copyright© 2007 NANZANSHA, All rights Reserved.
本サイトに掲載されているすべての記事・画像の無断転載を禁じます。