石垣島を中心に八重山諸島全域の観光・旅行・イベント・ニュース・伝統行事など八重山にこだわった地域密着型情報を日本最南端の出版社「南山舎」がお届けします!

やいまねっと

やいまねっとメニュー
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失
無料ユーザー登録
サイト内検索
南山舎の本

月刊やいま年間定期購読
島の手仕事第14回パピルス賞受賞!
南山舎やいま文化大賞
八重山を読む メニュー
話題チャンプルー
八重山手帳2017
やえやまガイドブック
やいまねっとに広告を掲載しませんか?
自費出版のご案内

トップ  >  コラムちゃんぷる〜  >  西表島  >  住民の命綱を守る花田嘉一さん|西表島コラムちゃんぷる〜

住民の命綱を守る花田嘉一さん

文=通事 孝作(竹富町史編纂委員)
寄宿舎での寮生活

 八重山で最も広大な面積を誇る西表島の西部を流れる浦内川は、太平洋に注ぎ、総延長一八・八劼埜内最長である。河口は、かなり広く一瞬、「広い池」ではないかと見る人を錯覚させる。その流れは大河のようで、島のほぼ中央部に源流を発し、支流を束ねながら浦内集落の南部を流れ海へと注ぐ。
 河川を遡っていくと、オヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギなどのマンロープの林が広がり、豊かな自然に覆われた、雄大な亜熱帯常緑樹が眼前に迫ってくる。そのため、島は「東洋のアマゾン」とか「日本最後の秘境」などと称される。
 浦内川に橋がない時代は、渡し舟が唯一の交通機関で、部落の人々や生活物資などを運んだ。それこそ浦内川は、船頭が操る一本棹の渡し舟が活躍の場であった。ここに一九六六年(昭和四一)一月二三日付けの『八重山毎日新聞』の記事がある。新聞には「渡し船とともに生きる花田嘉一さん一家…」との見出しが躍る。記事をみると、「西表西部を訪ねる人は必ずその舟のお世話にならなければならない」と渡し舟が住民の足であることを書き綴る。
 渡し守の花田さんは広島県生まれ。一九三五年(同一〇)の三十九歳のころ、西表炭鉱の労働者として西表島に渡ってきた。戦後、石炭業が衰微し、廃業に追い込まれると、しばらく農業をしていた。その後、浦内川の監守になったが、それまでは浦内川を安全に往復させる人はおらず、毎年、幾人かの人々が水難事故に遭い、水に呑み込まれていた。そのため一九五八年(同三三)から竹富町当局は橋が出来るまで監守人を置くようになった。その後、琉球政府建運局の管轄となり、一カ月二十四砲粘銅蕕鮴舛栄蕕辰討い襦
 新聞記事によると、渡し場は小さな伝馬船で棹をさし、祖納方面から来る人を向かいの岸へ、上原方面から来る人を向かいの砂浜へ安全確実に届けるのが任務で、所用時間五、六分間で対岸に届けてくれた。しかし、日没になっても利用者は絶えなかった。次から次へと人はやって来て、一人でも断るわけにはいかなかった。
 花田さんの住居は、岩の上に建てられた四坪ほどの小さな小屋。台風の時は、生きた心地がしないほど揺り動かされた、という。家族は中学二年生なる孫と二人暮らし。早朝から夜中まで老骨にムチ打って懸命に働いた。花田さんは一九六六年の時、七〇歳になっていた。その後も渡し舟は続いた。
 そして一九七〇年(昭和四五)、浦内川に架橋が実現し、渡し舟時代の苦労は解消された。橋梁の完成を祝う記念式典は、同年三月に地区を挙げて催された。



>西表島の特産品・おみやげ・本



 


運営会社情報個人情報保護方針サイトポリシーお問合せバナー広告について
 
Copyright© 2007 NANZANSHA, All rights Reserved.
本サイトに掲載されているすべての記事・画像の無断転載を禁じます。