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竹富島21世紀物語〜島の将来を考えるための7つのキーワード〜

上勢頭芳徳
竹富島コラムちゃんぷる〜「竹富島21世紀物語〜島の将来を考えるための7つのキーワード〜」

21世紀へのテーマ

 離島の離島でどうやって生くべきか。竹富島は独立は無理でも、島の自治を大幅に獲得することは可能かもしれません。

 今は昔…なんて始めるとなにやら「竹取物語」みたいになりますが、ついこの間までは”来るべき21世紀には“というのがあいさつとか決意表明とかの決まり文句みたいに使われていました。さていざ21世紀まで900日余りを残すのみとなりましたが、お正月と同じで、ある朝突然になにもかも変わることなどありません。せっかく1000年に一度の体験ができるのかも知れないのだから、翁もちょっと気張ってかぐや姫の夢など吹いてみましょうかというほどのこと。
 戦後50年はすでに過ぎ、復帰してからも四半世紀が過ぎました。そしてあのバブルが崩壊して10年。4・28沖縄デーは忘れられ、5・15復帰日(?)の記憶もはためき、本土並にというかけごえに踊らされての反省もものかわ、揺れ動く世相の中で私たちは離島の離島でどうやって生くべきか。なんてきつい言葉だけど、夢を見るのは勝手だし、実現できたらなお良いな。ということで七つのテーマで描いてみました。
  1,まちなみ保存
  2,観光
  3,染め織り
  4,祭り
  5,史跡
  6,みち
  7,世界遺産
 竹富島の地域づくりにとってこれらのことは、21世紀にも大きなテーマとして検討すべきことでしょう。もちろん生涯学習、医療・健康長寿、高齢社会、などの問題は基本的なこととしてすべてにかかわってくる問題です。諸々の課題を克服して近い将来財団法人の設立が実現すると、竹富島は独立は無理でも島の自治を大幅に獲得することは可能かもしれませんね。現実を見ない理想論は空虚だという人もありますが、理想を忘れた現実論ほど悲惨なものはまた無いでしょう。
 昨年11月9日、町並み選定記念講演会で国立民族学博物館の石森秀三教授は、「日本も少子化傾向で、定住人口の増加ということは考えられない。その地域を第二のふるさととして考えてくれる交流人口(良質の観光客)の確保を検討すべき」と話されました。
 うつぐみ(協力)という言葉をキーワードに、この島のことなら放っておけないと言われるほどの島づくりを目指したいものです。

竹富島コラムちゃんぷる〜「竹富島21世紀物語〜島の将来を考えるための7つのキーワード〜」
竹富島コラムちゃんぷる〜「竹富島21世紀物語〜島の将来を考えるための7つのキーワード〜」


1.まちなみ保存

 伝統的な家のつくりは家庭行事や祭事を行ったり、縁側コミュニケーションでストレスを解消するのに最適な構造になっています。

 法的には文化財保護法に基づく国選定・重要伝統的建造物群保存地区といいます。まあ、漢字ばかり並んで、何とも長ったらしく堅いことよ。毎度書くときに疲れてしまいます。
 まちづくりは発想を転換することだといいます。よそを参考にしても、消化して地域に合った方法を見つけていこうと、竹富島ではせっかく残っている赤瓦の家並みを保存することにしました。
 そもそもの発端は1972年の復帰の頃、島の土地が買い占められていったことへの阻止運動からでした。1982年には「全国町並み保存連盟」にも加盟し、独自の「竹富島憲章」を制定するなど住民の決意に町行政もようやく重い腰を上げ、1987年に国選定として官報に告示されました。沖縄県ではもちろん初めて、全国でも24番目のことでした。
 家の造りも集落の形態も、長い時間をかけてその地方の風土に合うようにつくられてきたのだとしたら、生活の知恵の塊といえるでしょう。こういった地域文化は生活しながら保存していく重要なものとして、文化庁は保存整備事業を行います。当然のことながら技術が継承され、資材が確保されなければなりません。竹富島では毎年4〜5軒の家が生まれ変わっています。これがまた観光資源となって評価されていくのですから、世の中おもしろいものですね。
 しかし町並み保存というのは映画のセットを作っているのではあるまいし、また観光用にがまんしながら保存しているのでもありません。伝統文化として、住民が胸を張って誇れるようでなければ本物ではないのです。これから観光も本物志向になっていく中で、他所と競争する必要の無いものをもっていることほど強いものはありません。
 昨年9月に明治学院大学が島民を対象として行った調査「重伝建地区竹富島の生活と意識」報告書ができあがりました。竹富島愛好度は「好き」「まあ好き」を加えて98・3%。生活満足度は「満足」「まあ満足」を加えて84・5%。豊かさは「豊か」「まあ豊か」を加えて83・6%。
 先日経済企画庁から各県毎の豊かさ指標が発表されたが、沖縄県はワースト3に3項目も入っているとか。しかし豊かさとはなにも収入の多寡、施設の数で計られるものではないことは、今回の竹富島調査でもはっきりしています。一部の人や観光客にとってのいいところではなく、島民が家族とともに平穏に暮らせる地域こそ豊かといえるのではないでしょうか。ちなみに島の何に誇りを持つかについては「町並み保存」にたいして59・0%が誇りと回答しています。
 沖縄は復帰後、本土並を至上命題として進歩発展を目指してきたつもりなのに、便利さとか効率とか本土の悪い面ばかり後追いして、本土が失くしてしまった良いもの(家族の絆とか地域の互助精神とか・)を捨て去ってしまっているのではないでしょうか。
 伝統的な家のつくりは家庭行事や祭事を行ったり、縁側コミュニケーションでストレスを解消するのに最適な構造になっています。長い間の生活の知恵の塊です。町並み保存とは何も観光用とかTV用に赤瓦の家を残しているのではなく、本当の豊かな暮らしができ、少しは長生きできる方法を学ぼうということが究極の目的です。
 歴史的な家並みの中で、精神的な支えとしての祭りや、伝統的な手仕事が継承されていてこそ意味があります。まちづくりというのは、まさに歴史の審判に耐え得るようなものでなければならないでしょう。
 竹富島の評価が高まっているのは、これまで島の先輩たちがきちんと残してくれたからであって、そのおかげで今の私たちがいい思いをさせてもらっています。後輩を育ててせっかくのいいものを継承していかないと、後世歴史の批判にさらされることになりかねません。
 石垣島に限らず都市部では近代化、個性的という虚名の下に無国籍というか、風土性を無視した建築物とまちづくりが進行しているようにみえます。最近は新石垣市立博物館構想に町並みの再現が組まれたり、赤瓦葺きや石垣積みに補助をだしたり、ディベロッパーが建築協定を結んだりという動きがあるのも、こういった反省に立ってのことでしょうか。

竹富島憲章
一、「売らない」 島の土地や家と島外者に売ったり無秩序に貸したりしない。
二、「汚さない」 海や浜辺、集落等島全体を汚さない。
三、「乱さない」 集落内、道路、海岸等の美観、島の風紀を乱さない。
四、「壊さない」 由緒ある家や集落景観、美しい自然を壊さない。
五、「生かす」 伝統的祭事、行事を精神的支柱として民俗芸能、地場産業を生かす。

2.観光

 観光業者と観光をやっていない人達が離反しないようにと、観光業者は公民館に観光税ともいうべき協力費を納めます。観光業者と観光をやっていない人達が離反しないようにと、観光業者は公民館に観光税ともいうべき協力費を納めます。

 明治38年の琉球新報に各島毎の紹介がされています。竹富島は「…其の島民は競ふて能く農事に精励する点に至りては実に県下農民中稀に見る所にして亦各々貯蓄の念に富むの美徳を有す。婦人多くは機業を営み芭蕉布を産すを以て名有り。人気亦活発にして能く旅客の応接に馴れ少しく諧謔の気味を帯ぶものゝ如し」とあります。
 当時は今でいうところの観光客とはなかったはずなのに、役人の巡視、新聞記者らがたまに訪れると歌、踊り、ユーモアあふれる会話をもって接待したことと思われます。資源もない島なので、よそからくる人達と接することで情報を引き出していたのでしょう。まさにニライカナイの思想を体現していたのですね。こういった島民性が今となっては観光業にぴったりで、この島の景観とともに人の生き方そのものが文化として評価されてきました。
 竹富島の観光は、戦後島を訪れた民藝関係者や民俗研究家らによって種がまかれていきました。破壊されないでよく残されている自然景観、風土にあった集落のつくり、何よりもそこで行われている自然の素材を使った民芸品作りと、伝統的な祭りの継承が来島者の心を引いたようです。まだ日本にもこんな所があったのかと民芸誌、民俗誌などに紹介されていきました。
 こんなにして始まった竹富観光だから、きちんとした観光地づくりをしていこうというのが基本姿勢となっています。「竹富島憲章」を制定したのも島民の意志の現れといえます。おかげでバブル企業の侵入という影響もうけなくてすみました。せっかく島民がこつこつと築き上げてきたのに、甘い汁を吸おうというのは甘いよ。許せない。
 「観光」という言葉は中国の四書五経の易経にでる「観国之光、利用賓窩于王(国の光を観るは、もって王に賓たるによろし)」に基づくといいます。石森教授は「観る」を「示す」とも読んでいます。地域がこれだけしっかりしていますよ、ということを示し続けることが大事だということでしょうか。せっかくのうつぐみ(協力)といういい言葉を、島外の交流人口の間にも広げていきたいものです。ちょうど復帰のころ、土地買収問題に島内外呼応して保存運動の基礎を作っていったように。
 ところで毎年の観光客の島別入島者数の発表だが、合計すると町への入域者数と一致するというのは数字合わせにしかすぎません。無意味どころか不正確なデータが行政を誤らせているとも思われます。「竹富島に12万人前後とは少ない。もっと多く、そのためには大きな船を、港の拡張、道路の拡幅、アスファルト舗装、スピードアップ…」という発想になっているとしたら、島の実情をみていないことになります。観光客の竹富島への期待を裏切り続けていることにもなります。
 石垣空港への観光客数が50万人を突破したというのに、竹富島へは12万人とは考えられません。今でもピーク時には対応できなくてトラブルの素になったり、行事への参加も困難となったり、利己主義を助長して地域崩壊の兆しがみえ始めているのですから。
 観光は良い仕事です。わざわざ出かけなくとも、海の彼方からお金と情報がもたらされます。アンテナを張り巡らせておけば、居ながらにして生の情報を得ることができます。せっかくの良い仕事だから客に媚びることなく、きちんとして持続可能な観光を目指すべきです。
 観光業者と観光をやっていない人達が離反しないようにと、観光業者は公民館に観光税ともいうべき協力費を納めるという、竹富ならではの制度をすでに14年前から実施しているような知恵を持っているのですから。竹富島から観光の仕事が無くなったら、いったい人口は何人になるでしょうか。どこにでもあるような所に成り下がってしまって、行くべきほどの島でもなくなってしまった、といわれるようになったときが島が自滅するときでしょう。

3.染め織り

 1987年の民藝夏期学校。外村吉之介氏は「竹富島がダメになったら日本はダメになる」と繰り返し言われました。

 1957年に初めてこの島を訪れた倉敷民藝館長の外村吉之介氏は、古い集落の佇まいをよく残していることに感心するとともに、地元の天然素材を使った手作りの染め織り、民具類を絶賛されました。ことに芭蕉布とかミンサー布などは後継者育成を提唱され、製品は倉敷民藝館へ送って販売してもらい、経済的にも自立できるように応援してもらいました。
 経済面だけでなく大原総一郎、浜田庄司、バーナード・リーチ氏らと図って「古竹富島保存会」を結成して御嶽の拝殿の再建費を寄進されたり、復帰のころの土地買収問題が表面化するにつれ「文明の火中に身を焼くまいぞ」という激烈な文を朝日新聞に投稿されたりと、まさに物心両面からの全国的な支援態勢でした。
 1964年には80人の民芸ツアーを引き連れて来島。沖縄タイムス紙は「さすが民芸の島」、「世界中で一番いい所」という見出しが躍り、1ページを使って特集しています。こういった刺激が、手作りの重要さを理解していくことになったのでしょう。展示即売会でも化学染料で染めたものは、即ゴミ箱へほうり込まれたというのも語り草です。
 1987年に竹富島が倉敷の美観地区と同じように、文化庁から保存地区に選定されると我がことのように喜ばれ、翌年に全国から77人が参加して民藝夏期学校の開催となりました。2日間、4時間にわたる外村師の講義は民藝の本質を説く格調高いものでしたが、その中で「竹富島がダメになったら日本はダメになる」と繰り返し言われた言葉は今まさに島民が振り返ってみなければいけないことでしょう。
 昨年4月18〜20日には9年ぶりに夏期学校が開催されました。今回も全国から民藝に関心をもつ83人の人達が集まりました。講師席には9年前の外村師の車イスを置いたのも、恩人を忘れないため。3日間、柳宗理日本民藝館館長や水尾比呂志武蔵野美大教授、内盛スミ竹富町織物事業共同組合理事長らの講演を聴き、芭蕉を倒して97才の大山敏さんらから糸紡ぎを習い、夕陽を眺めヘールボップ彗星に歓声をあげてバーベキューパーティー、夜は芸能交流会と内容豊富な3日間を過ごしました。参加者からは「竹富島の美しい町並み、花咲く南の島で育った美しい織物に関わった3日間をありがとうございます。今でも島唄が風に乗って聞こえてくるようです…」というのをはじめ、お礼の手紙がたくさん寄せられたのも印象深いものだったからでしょう。沖縄県立芸術大学の与儀勝之君は「現代文明の庇護に育てられた自分には、芭蕉の糸づくりに費やすエネルギーは気の遠くなるようなものだったが、おばぁちゃんたちの笑顔とともに竹富島の生命力のようなものを感じました」と民藝機関誌に寄稿しています。
 天然の染料、糸を使い手染め手織りにこだわり続けることが島の象徴にもなっています。景気変動の波にうまく乗るような芸当をする必要もありません。景気の波の影響を受けない、民芸という本物志向の人達はいつの世にも存在するのですから。
 竹富島がこれからも観光を軸とした島づくりをしていくにしても、原点は民芸の島ということです。愚直なまでのこだわりが島の光だし、それを磨いてくれる若い人たちが育ってきています。

4.祭り

竹富島行事予定表(平成十年度)
 四月大祭  5月11・12日
 四月祭  6月5日
 西塘大祭  7月24・25日
 豊年祭  8月3・4日
 節祭  8月20日
 七夕祭  8月28日
 お盆  9月3〜5日
 敬老会  9月15日
 結願祭  9月22・23日
 世迎い  9月28日
 トゥルッキ  10月4日
 十五夜祭  10月5日
 種子取の願  10月4日
 余興(1日目)  10月10日
 余興(2日目)  10月11日
 支払議会  10月12日
 九月大祭  11月3・4日
 十月祭  11月21日
 ナーキ祭  12月23日
 二月祭  平成11年3月

 昔の人は祭りを多く持つことによって、共同体を円滑に維持していこうとしていたのでしょうか。だとしたら祭りは地域のDNA…

 竹富公民館で行う祭事行事は年間20回を数えます。1950年代に減らして半分くらいになったとか。終戦直後の厳しい生活の中で、多くの祭事行事を行うのは大変な事だったのでしょう(人頭税の時代はもっと大変だったかもしれませんが)。しかしその頃はほぼ均質な社会だったろうから、祭りを減らしても共同体は維持できる自信があったのでしょう。ところが復帰の前後頃から急速に社会の在り方が変化し、価値観が多様化してくると一致点を見いだすのは困難になってきました。
 祭事行事はそれを遂行することはもちろんだが、達成するためにはぎくしゃくした関係を修復しなければならない場面もでてきます。昔の人は祭りを多く持つことによって、共同体を円滑に維持していこうとしていたのでしょうか。だとしたら祭りは地域社会のDNAみたいなものですね。
 竹富島の最大の祭りは種子取祭。9日間にわたる日程のうち、7、8日目に当たる(かのえとら)・(かのとう)の日は36時間ぶっ通しで神事・芸能奉納・世乞いが行われます。子供も歩けるようになったら、ミルク(弥勒)の子供として舞台にあがるのです。島出身の人達も子供を、孫をと盛装させて参加させます。まあ、こんなことでアイデンティの刷り込みが行われているんでしょう。だから島を出て行っても、祭りの頃には血が騒いでじっとしておれない。そして何年か後には鮭ではないけれど、故郷の匂いに魅かれて帰ってくるのです。
 観光という仕事ができたので、Uターンする若者も増えてきました。島のDNAは持っていないが、Iターンして来る人も増えました。人口276人中73人はそんな人達です。15年前からクルマエビ養殖事業が始まったが、従業員はほとんど島外出身者。その採用条件がふるっています。「地域の祭事行事に参加すること」。体力を要する下働きで大きく貢献しているし、舞踊の特訓を受けて舞台に上がれる幸運な女性もいます。伝統を大事にするといいながら、決してとことん閉鎖的でないのが島民性でしょう。
 若者達にもっとしっかり祭事行事を勉強して島習いしてもらおうと、昨年は「島文化を見つめ直し、21世紀を担って活躍する人材の育成を図る」と、それはもうわくわくするような壮大なテーマでもって(少し気恥ずかしいくらい)、成人大学講座を14回にわたって44時間開催しました。祭事についても3回、6時間の講義と祭り唄の実習を行いました。却ってIターンの人達が熱心だったようなのは、遺伝子の組み換えが行われているのかといぶかるほどでした。
 年間を通して一連の祭りの流れは意味が、意義があるのですが小さい祭りや40数年前に省略された祭りの中にも、今振り返ると大事なものがあったかもしれません。アイデンティティの確立のためには再検証してみることも必要ではないでしょうか。

5.史跡

 6つの村が統合されていく課程が種子取祭の世乞い唄にうたわれています。中世の遺跡と現在の町並み、これも島の魅力。

 島の北方、間近かに海を見下ろす高台に新里村遺跡と呼ばれる場所があります。花城井戸を挟んで東側は12〜13世紀頃、西側はそれ以降14世紀頃の集落跡だとのこと。今は竹富町指定史跡になったが、一周道路の計画では道路として埋められてしまう所でした。緊急発掘調査を行った県の担当者もすばらしいと新聞にも発表していたので、こんなものを道路の下にはできないと保存運動を起こし、ルートを変更することができました。
 佐藤サトルの「誰もしらない小さな国」の話を思い出します。小さいコロボックルたちが住んでいた山にトンネルができることになり、思案した小人たちは夜な夜な地主たちの枕元に立ち、「土地を売るな。土地を売るな」とささやき続けて撤回させたという。貴重な遺跡を、本当に必要かどうかも分からない道路のために埋めるなんてことはできないはずです。
 花城井戸は種子取祭の飯初(イイヤチ)をつくる際に使う水として、利用されてきました。今でも何かといったらここを拝みに来る人は絶えません。この井戸に関する話はまた、島の東方にある花城御嶽周辺の旧花城村との関わりを伝えています。集落が移動していったのでしょうか。
 竹富島には北方から渡来してきた6個の集団が、それぞれ村をつくっていました。それが統合されていく過程が種子取祭の世乞い唄にうたわれています。今は御嶽と集落跡が残っていますが、東方には花城御嶽の他に久間原御嶽、波利若御嶽が近接していて、ことに久間原村と花城村は段丘崖にさらに石積みしていて実に壮観です。
 どう聞きつけたのか、ここを4年前から国立歴史民俗博物館が測量調査して、14〜15世紀頃の遺跡がこれほど完全に近い形で残っているのは全国的にも例がないとのこと。昨年は竹富町が予算を組んで、久間原村のほんの一部を発掘調査しました。竹富町教育委員会の仲盛敦さん(30)は、ライフワークとして取り組みたいというほどの熱のいれようです。小浜島の血を引くまだ若い彼をして、そう言わせる程魅力のある遺跡のようです。町並み選定イベントやヤシの実大学、その他事あるごとに案内しています。
 2001年に環状線が完成すると、集落内の観光はおばちゃんガイドや水牛車、集落外はバスで史
 跡や海を回るということになるのでしょうか。2月にはNHK文化センターの「街道をゆく・沖縄・先島への道体験ツアー」30人を試験的に案内してみましたが、反応もよく好評でした。中世の遺跡と現在の町並みが、共に高いレベルで残っているのが竹富島の魅力でしょう。

6.みち

 ─白と灰色の地の上に、酸化鉄のような色の琉球瓦の家々が夢のようにならんでいるのである。(「街道を行く─沖縄・先島への道」)─

 本来、ひとが歩くためにあったはずのみちが、今はあの怪獣(もちろん使い方によっては強い味方にもなるのだが)に占拠されてしまった感じです。竹富島でも昭和30年代にオート三輪車が導入されて以来次第に増え始め、復帰の前後には道路も拡張されていきました。それでもまだ優しい白い砂のみちとして残っていました。
 1975年に島を訪れた司馬遼太郎氏はその著「街道をゆく─沖縄・先島への道」の中で「集落は実に美しい。本土の中世の村落のように条理で区画され、村内の道路はサンゴ礁の砂でできているために、品のいい白味を帯び、その白さの上に灰色斑ともいうべきサンゴの石垣がつづき、そのぜんたいとして白と灰色の地の上に、酸化鉄のような色の琉球瓦の家々が夢のようにならんでいるのである」と表現されています。今時舗装されていない道があるなんて現代の奇跡だ、という人もあるくらい存在価値のあるものらしい。そういえば今でも子供連れの観光客のなかには、小さい子供が靴を脱いで走りだすのを見かけることがあります。子供も本能的に安心感を持つのでしょう。
 ところで現在竹富島には車が97台あります。132世帯、276人の島に97台は多いか、少ないかはともかく、これだけ観光客が増えてくると走り回る回数は確実に増えてきます。しかも短時間でスピードをあげて駆け回るから、お年寄りにとってはまさに怪獣に見えることでしょう。白い砂は踏まれて粉になり、みちは穴ぼこになって傷んでしまう。4年前に高那石吉老人クラブ会長から、「年寄りが安心して歩けるみちを考えるように」と提議がありました。以来検討を重ねた結論は「集落内に車を入れないこと」。
 保存審議会の答申、公民館で決議して町へ上げて今年の国の予算もつきました。2001年(平成13年)には集落の外を回る環状線が完成します。観光バスのかなりの割合が集落に入らないことで、集落の環境は維持できます。そして車も電気自動車等に切り替えていく。弱者に優しいとはこんなことではないでしょうか。重要なのは新しく道路をつくるということが車の便利さを求めるためにではなく、少しの不便は我慢してでも大事なものを守るという発想が、住民の側から出たことです。
 それにしてもこんな論議がなされている最中に、港から集落への道路が拡幅されてアスファルト舗装されてしまいました。昨年の夏は民宿の常連客から叱られっぱなしで、おばさんたちはしょげ返っていました。そしてあろうことか、とうとう集落のなかにもあの黒いアスファルトが、まるでエイリアンのように延びてきました。目の前のことへの対応で心もすさんでくると、気がついたときには人もいなくなっていたりして。
 行政の整合性はどこへいったのでしょうか。住民が求めて勝ち取った「重要伝統的建造物群保存地区」は、文化財保護法という国の上位計画であるはずなのに。

7.世界遺産

 集落の保存地区指定だけでなく島全体が歴史的景観保存地区。緩衝地帯を確保できる竹富島を世界遺産に……

 世界遺産という言葉がようやくなじんできたようです。「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づきユネスコの世界遺産一覧表に記載するもので、世界的・普遍的価値を有する文化財や貴重な自然として世界遺産基金からさまざまな保護、援助が受けられます。
 現在は文化遺産、自然遺産、複合遺産合わせて552件が登録されていますが、日本は条約批准が20年も遅れたこともあって文化遺産に姫路城、奈良・京都の仏教建築物、五箇山地方の合掌づくり集落群など6件、自然遺産に白神山地と屋久島の2件が登録されているだけです。沖縄からは首里城を中心とした「琉球王国の城・遺跡群」が登録推薦のための暫定リストに記載されています。
 世界遺産への登録には国内法で保護されていることや、保護のための緩衝地帯(バッファー・ゾーン)が500メートルは必要です。緩衝地帯は本体と同じくらいの保護が要求されるので、首里城の周辺で可能でしょうか。守礼の門から園比屋武嶽にかけてのあの軽薄、猥雑な様子は聖地を汚しているとしか思えません。
 竹富島は11年前に文化庁から、沖縄県で唯一の伝統的建造物群保存地区に選定されましたが、その時から世界遺産へということも視野に入れていました。それは「売らない」・「壊さない」・「汚さない」・「乱さない」・「活かす」という竹富島憲章を制定して、保存の方向性を明確に表明していること。それに集落の保存地区指定だけでなく、島全体リーフまでのイノーの部分も歴史的景観保全地区として指定して緩衝地帯も確保していることです。
 そしてここにきて花城・久間原遺跡群が脚光を浴びてきました。現在の町並みと中世の遺跡群を合わせたらずっと深みが出てきます。竹富ばかりではという不満があるのなら、西表の自然と合わせて複合遺産という線も考えられます。 
町並み保存地区への道程では町の理解がなかなか得られませんでしたが、こんどは町はどのように考えるでしょうか。これはひとり竹富島だけの問題ではないはずですが。

(情報やいま1998年6月号より)

上勢頭 芳徳 (うえせど よしのり)
1943年10月24日 長崎県生まれ。
出版社勤務を経て1974年5月15日竹富島へ移住(今年で24年目)。町並み保存運動にかかわって現在に至る。竹富島集落景観保存事務局。喜宝院蒐集館学芸員。論考に「竹富島に何が可能か」など。

 


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