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トップ  >  セレクト特集  >  「真謝井戸」(マジャンガー)に関|八重山を読む!セレクト特集する一考察

「真謝井戸」(マジャンガー)に関する一考察

文 石垣繁
はじめに
真謝井戸
南島の八重山諸島には「ウリカー」と称する古式の「下り井戸」がある。このウリカーは、地上において釣瓶を下ろして水を汲み上げる掘抜き井戸とは形態を異にするものである。すなわち、水のある所まで切り下げ、石を畳みて斜道となし、下り行きて水を汲む井戸をいう。
そのウリカー(または、ウランゲー)には水を掘り当てるまでに幾度か方向を変えたらしく屈折があり、民衆の苦闘の跡が見られる。
(1)1727年に調製された「八重山島諸記帳」には、59基の古井戸の所在が記されている。その中の白保村(以下、ムラと称呼する)の項には、
 一、おかは井村北迦に有
 一、真謝井村内に有
 一、ゑさんと井村内に有

と3つの古井戸が存していたことが見える。
ところで、右の3つの古井戸のうち「真謝井」は、白保村に現存する唯一の古井戸で民謡にも詠まれており、村人の信仰の対象となっている。他の2つの古井「おかは井」「ゑさんと井」は、今日では白保村の村人の記憶から遠く消えさっている。そこで、ここでは節歌「しんだすり節」を通して、その中に詠まれた「真謝井戸」に関する疑問点を考察し、1700年代の白保村を知る手がかりとしたい。

白保村の概史

白保村は、石垣島の東南に位置し、東方には真謝浜があり、西北には轟川が流れ、西方には宮良村が隣接した純農村である。
往昔、白保村は独立村ではなく宮良村役人の管轄下にあった。
慶長検地(1610年)で調製された「宮古.八重山両島絵図帳」では、八重山諸島は六間切、二島嶼、五十八ケ村に区分されており、その中で「しらふ村」は宮良間切に属している。
「八重山島年来記」によると、1629年には大浜間切に属している。1713年には波照間島から3百人余の寄百姓を入れて地頭持村(独立村)となる。その後、人口は増加し、1750年には1372人になり、内686人を真謝村に差分けて地頭持村にしてもらう様に申請がなされている。さらに、桃里村や安良村、屋良村等へも差分けたことが記されている。
明和5年(1768年)以後は宮良間切に属する。村位は上村である。ところが、明和8年(1771年)の大津波では、1574人の内1546人が溺死し、生存者28人を残して潰滅してしまった。
「大津波後に調製された「大波之時各村之形行書」によると、野国親雲上在番は、卯年(1771年)生存者28人(男21人、女7人)に、波照間島から418人(男193人、女225人)を再移入せしめて、本村敷(現在地)より刻方(西北)約2キロートルの上野地と称する所で村建を行なっている。また、巳年(1773年)には、本村敷に在った「嘉手苅御嶽」をはじめ「真謝御嶽」「多原御嶽」の三御獄を上野地に奉遷して崇敬している。
白保村が津波後、何年の年月を経て現在地に移転して来たかは定かでない。各御嶽(嘉手苅御獄を除く)の移転もしかりで、いつ現在地に奉遷されたかは今だ知られていない。
〈三ヶ御嶽の扁額に記された乾隆五十八年(一七九三)から見て、およそそれ以前に移転がなされたものと推考される。〉

節歌「しんだすリ節」

節歌「しんだすり節」は、「真謝節」とも称呼され、現代では八重山諸島の民謡の中で白保村の民謡として、「白保節」「ボスポー節」と共に三大傑作のひとつと称されている。
この歌は、白保村の風土を賛仰した歌で、村の永遠の栄えを最上の誉めことばで予祝している。
歌詩は「八・八・八・六」の琉歌体で構成されており、その詩句は沖縄方言と八重山方言の混交である。その内容は、はじめに白保村の位置を賞賛し、次いで村人の美しさに対する誇り、稲粟の豊かな稔りに対する歓喜、そして、その美しさを乙女にたとえる官能の新鮮さを表現している。歴史的にみると想像を絶する南島の人頭税という圧政の世にありながらまったく生活の悲痛さを感じさせない。正に生きることの喜びをひしひしと感じさせる歌である。
その曲調は、軽快で明朗快活な感じをいだかせる。そのことについて、八重山音楽の研究者・新崎善仁氏は、「琉旋法にない曲調で八重山諸島に三味線の移入によって節歌の発生する以前の律旋法の大陸的な曲調である。」と述べている。八重山民謡(古謡)の「ばしヰ・ゆんた」「まへらヰ・ゆんた」「しゅうりちヰ・ゆんた」等は、この律旋法に類するとのことである。
ところで、八重山研究の先覚喜舎場永 は、この節歌の由緒を『八重山民謡誌』の中で、次のように述べている。
『真謝井戸は、真謝村の後方にある井戸で石の階段のある古い井戸で、俗に「下り井戸(ウカー)」と称している。この井戸は最初、白保の亀川家の姥が発見して飲料水用の井戸にしてあったが、明和八年(一七七一)の大津波で埋められた。これを「馬具謝(ンママジャ)」という首里人が白保村に流罪になってきて、再掘させたといわれる。馬真謝が流罪になった理由は、首里城内で馬目利役を勤めていたが、王の愛妾と人目を忍ぶ仲となったのが露見したためという。白保では、美人であるうえ、歌の名人である「多宇サカイ」に惚れ、これを娶っている。元来、白保村は海岸に近く飲料水に乏しいため、馬真謝は村民に請われて津波で埋没した井戸を掘りおこし、石の階段をつくり、水汲みの便をはかった。(附点筆者)
その落成式の当目、前から歌っていたチィンダスリ節を、馬真謝が琉歌体に改作し、村民に歌わせたと伝えられている。この馬真謝が死ぬと、井戸を再掘した功績を記念するために「カザリ墓御嶽」の西南隅に井戸と向い合せに「イビの石」を建てて祀っている。
毎年旧暦6月の豊年祭には、三御嶽が各々御祭りを終えて最後には、このカザリ墓御嶽に全村民が集り祈願のあと、古式の巻踊を踊り、終ると綱引き余興で豊年を祝している。真謝井戸の名称は、馬真謝の真謝と真謝村の井戸の真謝とが偶然に一致したので真謝村の井戸というわけでもある。
その節名は、囃子の「シンダスリ」がもとになって称呼されている。もっとも囃子の「シンダスリ」は、原歌の「チィンダスリ」の転訛とも言われている。その語の意味は、可愛い乙女をみて気がよみがえる意であるという。
ところで、この節歌は「小浜節」「大川飾」「桃里節」と歌詞が類似している。しかし、その異なる特徴は、井戸を「くさでぃ」(腰当)にしていることである。

「真謝井戸」に関する疑問点

真謝井戸
その一、「馬真謝」と称する人物について
喜舎場永 の『八重山島民謡誌』『八重山民謡誌』の両誌によると、馬真謝(俗称)は、首里王府の馬目利役をしていたが王の愛妾と人目を忍ぶ仲となり、そのことが露顕されて白保村(八重山)に流刑されたとのことである。(以下「流罪説」と称する)。
次に、白保村の民間伝承や牧野清著『八重山の明和大津波』では、馬真謝は、琉球王の命によって津波災害視察のため派遣されたとのことである。(以下「派遣説」と称する)。
右に見るように馬真謝と称される人物の八重山への来島には「流罪説」「派遣説」の二説があって、その真偽のほどは謎となっている。
ところで、白保村には真謝井戸の東側に白保老人会が建立したコンクリート製の「真謝井戸の碑」がある。
喜舎場永 の碑文の草稿においても、馬真謝の来島は、琉球王命によって派遣されたとあって「派遣説」をとっている。
ところが、同碑建立の翌年(1967年)に発刊された前述の『八重山民謡誌』(171頁)では、馬真謝を「流罪人」とみて記されており「流罪説」をとっている。
右に見るように喜舎場永自身に揺れがあり、それを決定づける有力な史料を持ち合せていないようである。つづいてその翌々年(1968年)に発刊された牧野清著『八重山の明和大津波』の「津波にまつわる民間伝承その他の小話」では│琉球王の命によって視察のため来島した真謝与人│とあり、「派遣説」をとっている。しかし、これも今だ、伝承の域にとどまっている。
ところで、筆者のこれまで散見した「八重山科人公事帳」や「参遺状」その他「御手形」等の古文書からも、真謝井戸を掘り(再掘)村人に供したとする人物は見出し得ない。
もっとも、文献資料の少ない今日、馬真謝と称される人物がいかなる理由で、この八重山に来島されたかは定かでない。このことは今後の史料の発掘にまちたい。

その二、「真謝井戸」の所在について
白保村には、前述の老人会が建立した「真謝井戸」の碑に異議をはさむ古老が数人いる。これらの古老は、村の西北2キロメートルの与那岡(海抜60メートル)に存する井戸こそ真の「真謝井戸」と称している。とかく「真謝井戸」の所在は村人にとって常に関心事である。
「大波之時各村之形行書」の記録によると、上野地の新村敷には「山城井」「平津井」「名浦井」の三ヶ井の記録が見え「真謝井」なる井戸は見出し得ない。また、上野地(与那岡)は洪積世の台地上に形成されており、大浜永亘氏の考察によると「近世の遺物である内地陶器(有田系)、沖縄産の陶器、地元の荒焼等が採集されており、中国製陶器(青磁・白磁・南蛮陶器)等片の散布がほとんど見られないことから、古記録(大波之時各村之形行書)に出てくる明和津波後、再建された白保村の跡と思われる。」とのことである。
ところで、「真謝井戸」は前述の「八重山島諸記帳」(1727年)にも「真謝井村内に有」と見え、現在地の本村敷に存することが記されている。そのことからして、与那岡に存する井戸を「真謝井戸」と称することは当を得ていないといえる。

その三、「真謝井戸」周辺の遺跡について
白保村内には「真謝井戸」付近から東方の真謝御嶽にかけて遺物が採集され集落跡であることが確認できる。ところで、白保村には「白保貝塚」と称される貝塚がある。この貝塚は、多原御嶽の北側に位置し、採砂場を中心に西の三叉路付近の砂丘上(カニク)の畑にかけての貝塚である。現在、採砂によって大部分が破壊されている。採砂場の凹地の南の砂丘の断面を見ると砂利層があり、その下に包含層の貝塚・土器片が露顕している。
このように貴重な遺跡が文化財の指定を受けることなく破壊されていることは至極残念なことである。文化財の指定を待つまでもなく残された部分を是非、保存し後世に遺したいものである。

その四、「真謝村」の独立について
白保村は、石垣島の東海岸に面して縦横に整然と配されて村建がなされている。村の古老の話によると、古くは南から、「前ぬ村」「白保村」「真謝村」「兼久村」の順に配されていたという。
明治35年(1902年)に調製された「石垣島の地図」によると「前ぬ村」「兼久村」は、それぞれ白保前原、白保兼久村の原名(ハルナ)を指しており、行政区画上の村ではなかったようである。
ところで、「真謝村」の存在であるが「八重山島年来記」の乾隆15年午(1750年)の項に、白保村から村分けして「真謝村」を地頭持村(独立村)にしてもらうための陳情の記述が見える。同様の記述は「参遺状」の中にも見える。
「八重山歴史」の記述をみると、「真謝村」は寛延3年(1750年)に独立認可されたことになる。はたして「真謝村」は独立認可になったのであろうか。このことは、白保村と切りはなしては考えることのできない関心事の一つである。
「八重山島年来記」や「参遺状」の記述からすると、「真謝村」の認可指令があったと見なすことは無理があるように思う。
また、白保村の当時の人口動態から見ても独立は無かったものと推考される。「琉球八重山島取調書」の記述によると、1750年に1372人中686人を真謝村へ差分けたと仮定すると3年後(1753年)には、その倍以上の人口増(1570人)になり、はたして当時の人口動態から見て可能であっただろうか。それに『八重山島年来記』には、同年(1750年)屋良村へ100人、3年後の1753年には安良村へ100人村分けした記述が見える。
そのことからして「陳情即独立」とみなすことは無理がある。
さらに「真謝村」なる名称は、旧記に乏しく明和の大津波後に調製された「大波之時各村之形行書」においても見出し得ない。
したがって、1750年に「真謝村」の独立(地頭持村)陳情をこころみたものの琉球王府からの認可指令はなかったものと推考される。

その五、「真謝井戸」の形態と信仰
「真謝井戸」は、人為的下り井に属し、下位区分は大型下り井(岩盤を掘り抜き通路を通した形態)に当る。もっとも真謝井戸は大型下り井形態の中でも特殊なもので、小型下り井(湧水を整形した形態)を規模を大きくしたものとみたい。すなわち、「真謝井戸」は、窪地状の湧水を利用する際に、人為的な改良を加え、間口を広げ通路(階段等)を設けて、下りて行って水汲みをした井戸である。その下り口は、村を東西に走るバス路線の南側に面している。入口部分は道路の拡張によって幾分かの階段の手直しをみるが、全体的には今日なお原形をとどめている。階段は、急勾配を呈しており、飲料水に供していた当時の民衆の生活の跡を残している。
その階段をよく見ると、東側の面に中腹から南方向に一つ階段が形成されており、北と南の両方の村人に供されていた形跡がうかがえる。そのことは、他の古井戸に見ることの出来ない特徴の一つである。
次に、「真謝井戸」の信仰について述べてみる。白保村は、明和の大津波で潰滅し、かつて村に水を供給していた三つの古井戸(前述)もあとかたもなく埋ってしまった。その中でただ一つ出現した「真謝井戸」は、村人にとって正に神の御利益であった。もっとも「真謝井戸」は村人の信仰の対象となり、今日なお、井戸の神に対する信仰は鄭重をきわめている。その祈願の祭りは、年2回にわたって行なわれ、旧暦6月の豊年祭と8月のアラミジニン(最初の水の日)にとり行なう習わしである。豊年祭には、村人は各御嶽の祭りを終えてカツァリバガオン(飾リ墓御嶽)に集い、神司の祈願のあと、古式の巻踊を踊り、綱引き、仮装行列等の余興で豊年を予祝する。アラミジニンには、「真謝井戸」から水を汲み活花し、水元の神司、真謝御嶽の神司を中心に脇司、村役人、それに津波後「真謝井戸」を再堀した当時の村役人の子孫が供物をかざり祈願を行なっている。
その祈願は、手はじめに「真謝井戸」の神をウーピカイ(御案内)し、井戸と向い合せのカツァリバガオン(飾り墓御嶽)を祈願し、次にウランゲー(真謝井戸)の神を祈願する。その後、水元家の神前、オーセ(村番所跡)へとつづく。
もっとも「真謝井戸」は村のクサディ(頼みとするもの)となり、前述の節歌「しんだすり節」にも詠まれている。村人にとって井戸の神の加護に対する信仰は、健康祈願、豊作祈願と一体をなしている。

(情報やいま2000年5月号より)

 


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